元号候補が、漏れていくとき

新しい元号に絡み、候補になりながら、選ばれなかった案は、次の機会を考えて、公表しないと言うのが、政府の考え方だったはずなのに、政府関係者なる匿名の人物や、考案者への取材から、次々と報道にあがっている。

ガバナンスが取れていないということもだけれど、秘匿する目的を理解していないが故に起こっているのだろうと思う。

そもそも何故だろう?と考えたときに、最近、思い当たる節がある。私の考えが正しい、1番であるというような、主張をする人が多いというのが何処かにあるんじゃないかな。そして、じぶんだけが知っているということを話したいという思い。

なんとなく流されて、物事が決まるよりも、明確な意思と議論を持って、例えば目的がこうだから、この内容で決定しようなどと協議の上で決まるならいいだけど、その意思決定のプロセスに問題があるから、納得できない人の心のなかにくすぶる思いが残ってしまうのではないかな。

選ばれた最終プロセスに同席していなかったり決定のための有識者に入っていない場合、有識者の選定に納得できない場合、なにか腹落ちしない思いがあると、じぶんが正しい、あるいはじぶんがした仕事を認めてほしいという思いが強さ故に、そこに我が入りこんでしまう。

少し想像力を働かせば、なぜか?ということがわかるはずなのに、自己主張を是とする風潮は、日本人の謙遜だとか謙虚だとかいう美徳をうすめてしまっているのではないかなと、感じてしまう。

じぶんが黙れば出し抜かれて悔しく思った人もいるだろうな、報道も我が社が報道しなければ他社に先んじられるかもしれない、紙面の穴を埋めねばならない、じぶんのみが知り得た情報で仕事を認めてもらいたい。。。上司はそれを正しく見ているだろうか?社の方針もあるけれど、報道すべきなのか考えているだろうか?そもそも社の方針なんて当代の社長次第で簡単に変わるのかもしれない。

実際のところ、報道がどんどんバラエティ化していて、見るに耐えない。スピーディにタイミングよく、面白おかしく、などということを追求してるのなら、昼間の番組など、電波がもったいないなと思う。

知る権利だなんだということも、それは、政府が秘匿すべき事案と、個人カルテの開示請求などと同列に扱うべきではないと思う。

個人情報保護法も、妙に違和感を感じる取り扱いをしている場合もある。隠せば知りたくなるのが人ってもので、取引の材料になるなんてうんざり。

振り返って私どうだろうといつもこういうことを考えたときに思い返す。
わたしも偏った主張をしていないかな?
わたしがわたしが、話をしていないかな?
相手が考えられるような投げかけや情報提供をしているかな?
大局をみて、話ができているかな?

今回、元号候補を漏らした人、取材した人、報道した人をどうこういうつもりはまるでない。周りに起こるすべてのことは、何かの学びをわたしに与えてくれている。
わたしはなにを得て学ぶか、それを観察していく。


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