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歳を重ねるごとにわかる「クワイエットアチーバー」の素晴らしさ                  子どもたちに世界と日本を伝えるグローバルママ 深町美里さんの思う日本人の美徳とは



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今回は、インタビュー記事のご紹介です。

いいヒトみっけ、記念すべき最初の方は、神奈川県鎌倉市のNPO法人hinatabocco(ヒナタボッコ)で英語講師として活動している深町美里さん。

これまでアメリカとオーストラリアで通算15年に及ぶ海外経験をお持ちです。日本で介護福祉会社の通訳や介護現場の仕事をした後、オーストラリアの大学、大学院で看護を学び、現地の病院で救急救命の正看護師として5年間勤務されていました。

彼女は第1子の妊娠を機に、長期海外生活にピリオドを打ち、帰国。現在は鎌倉で小学生2人の娘さんの子育てをしながら、英語講師としての活動のほか、日本に住む外国人の母親をサポートする団体のお手伝いもされています。

今回のインタビューは、深町さんのこれまでの人生を紐解きながら、母として、女性として、日本人として大切に考えていきたい想いについて伺いました。

日本が大っ嫌いになってしまった思春期時代

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ー深町さんはこれまで2度長期海外生活を経験されていますが、最初の海外生活についてお聞かせください

私は静岡県の三島で産まれ育ち、小学校3年生まで公立の小学校に通っていました。いわゆる日本の教育を普通に受けて、父の仕事の関係で小学校4年生でアメリカへ行きました。

アメリカでは現地校に通っていたのですが、仲が良かったのはユダヤ人とキリスト教の宗教色が強い子でした。クラスにはパキスタン、イラン、トルコなどの中東系、インド、韓国、中国などのアジア系、アイルランド、イギリス、ドイツなどのヨーロッパ諸国、南米やアフリカにルーツをもつ子どもたちがごちゃまぜで、純粋なアメリカ人はどこ?といった様々な人種の中で学校生活を過ごしました。シングル家庭も珍しくなく、当時、日本に過ごしていたら出会えなかった価値観にも触れられたと思います。

その後、アメリカで中学校を卒業して帰国しました。帰国後は以前通っていた小学校と同じ学区の公立中学校に戻りました。
アメリカの中学は6月卒業ですが、日本は3年生の2学期、まさに受験真っ最中の時期に転入しました。
アメリカへ行く前に通っていた公立小のお友達も同じ中学校にいたのですが、帰国した私は日本語も変になっているし、日本の学校風土、規律にもなじめず、周りからはちょっと変わって見えていたと思います。

仲良くしてくれた友人も小学校からの友達が2人いましたが、学校の先生や友達には目をつけられて、よく叱られ、指摘されて、なんで私は日本に帰ってきたのだろう、はやく日本から出たい、と、そんなことばかり考える毎日でした。

中学校から帰宅したら毎日なぜか眠くて、昼寝ばかりしていました。母は「疲れているのね」と、そっとしておいてくれましたが、たぶん、少し鬱状態だったんだと、今では思います。
半年くらい中学に通いましたが、受験は日本語力も足りないし、日本の中学での勉強内容が全く追いついていなかったので、英語が活かせる私立高校へ入学しました。

高校はすごく楽しかった。帰国子女も私のほかに3人くらいいたし、他の中学から来ている子も半数以上いたから、新しく友達もできました。
私は「ニセ外人」とあだ名で呼ばれながらも(笑)すごく楽しく充実した3年間を過ごせました。大学は関東の大学へ進学(英米文学を専攻)、就職も英語力を買われ、アメリカの老人ホームの経営を取り入れている介護福祉系の会社へ入社しました。

介護福祉の仕事で尊敬する女性上司との出会い、看護の道へ進むため再び海外へ 

1年目は現場を知るために英語とは関係なく施設で介護に携わりました。2年目からは運営本部へ異動し、アメリカ人上司のそばで通訳・翻訳の仕事をしました。

ー通訳としても充実した生活を送っていたのに、なぜ、オーストラリアで看護師になろうとおもったのですか

その時に出会った運営本部の部長が女性で、元看護師の方だったんです。彼女は入居者である年配の方の病気や心理面についての知識が豊富で、女性としても彼女のようになりたいと想うようになりました。介護の仕事は本当に大好きだったんです。1年目に現場での介護経験をさせてもらってから、看護の知識もあったら現場でもっと活かせるはず、と思うような経験をたくさんしたんです。

たとえば、持病や疾患をいくつかもっていらっしゃる高齢者の方、認知症の方など、多くの方と接して介護させていただくうちに、看護師でなければ手が出せない領域があったりするんです。
私は接する方の心身そのものにも関心をもち始めていたので、次第に看護師を志すようになりました。ただ、その頃の私は、まだ日本になじめずにいたので(笑)、日本でもう一度学校へ行こうという気持ちにはなりませんでした
いつかまた日本から出たい、と思い続けていたこともあり、海外で看護の勉強する、という決断になりました。オーストラリアを選んだのはたまたまです。

ーまわりからの反対はなかったのですか

英語力は問題なく願書も通ったし、特に親からの反対もなかったのですが、会社の上層部からは「大学へ2回も行かせてもらい親不孝だな」とは言われました(笑)。

でも、介護福祉の会社でOLとして働かせてもらったことよりも、1年目に介護の現場で人と接する仕事をすることにやりがいを感じていましたし、本当に介護現場の仕事が大好きだったので、迷いはありませんでした。当時は1ドル60円台だったし、日本よりオーストラリアのほうが学費も安かったと思います。
それでも大学へ通いながら、老人ホームでアルバイトをしたり、病院のアシスタントナースとして現場経験も積ませてもらいながら働いて生活費にしていました。

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静かな達成者といわれていた日本人看護師


ー病院看護師としての経験のなかで、印象に残っていることなど聞かせてください

勤務していた病院はシドニーのド真ん中、東京でいうと新宿二丁目のような場所にありました。
最初の1年目はいろんな部署に正看護師として送られて、現場経験を積んでいきました。
当初は心臓外科がいいかな、と思っていたのですが、救急救命に行ったとき、その臨場感にやりがいと面白さを感じ、救急看護に決めました。そして帰国するまでの約5年間、救急医療の看護師として働きました。

救急では、生死をさまよって送られる人もいれば、ただ不安だからと救急車を呼んで病院にくる人もいる。ドラック依存で送られてくる人も多くいました。
看護師をしていて、人間の身体の臓器のしくみやホルモン作用など、身体そのものの機能にも関心はありましたが、さまざまな社会環境下におかれている患者さんと接する中で、心のありかたに意識を向けるようになりました。

患者さんに病歴、既往歴を聞いていく中で、人によってはソーシャルワーカーが看護師と密にサポートすることがあるんです。ソーシャルワーカーが入るということは、その人の生い立ち(不幸なことも)までが分かるんです。例えば、貧困地域といった住んでいる環境や家庭環境からも、その人の症状(ドラッグも含む)や病歴と合致する理由が見えてくる。それは教育とも関係していると思います。ひとり一人に寄り添って看護していくことはこういうことなんだ、と思いました。

ー日本人がすごい、と、深町さんのなかで180°心境に変化が起きたきっかけは何だったのですか

そのような現場で働いていた時、オーストラリア人の上司からよく言われていた言葉があります。「なんで日本人はそんなに優秀なんだ。何も言わないのにできる」と。

それは私だけでなく、他の日本人看護師も同じように言われていました。その理由を聞いてみたところ、静かな達成者(quiet achiever クワイエットアチーバー)であると言われました。「弱音も吐かない、大げさに喜んだりしない。でも、(仕事は)できる。」

語学ができるできないは、ある程度のコミュニケーションがとれていれば関係なくて、それ以前の気遣いだったり、日本人としての振る舞いが、まさにオーストラリアの看護という現場でも大変重宝されていたように思いました。

救急医療看護の現場で様々な患者さんの生きざま、人生を目の当たりしたこと、社会人になり海外で看護師として働いていくうちに、徐々に日本人って凄い、ということに気づけたのでしょう。また、一時帰国する度に、日本人と客観的に接する機会を通して、その気遣いや心配り、丁寧さなどに驚かされました。こういうことをきっかけに日本を好きになれたのです。


日本人の素晴らしさを認識できたからこそ、日本で子育てをしたい

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ーオーストラリアでやりがいのある仕事についていたにもかかわらず、妊娠を機にご夫婦で日本に戻って子育てをしよう、と決断された理由を教えていただけますか

看護師として働いていた時にオーストラリアで働いていた日本人の主人と結婚しました。仕事は充実していましたが、妊娠をして、子どもを育てる、と考えたとき、日本がいい、と夫婦で決めました。

なぜなら、オーストラリアでの生活のなかで、普通に道を歩いているときも、オーストラリア人の仲間と一緒に仕事をしているときも、やはり日本人って凄くしっかりしている、日本人のなかには他の人種にはない美徳がある、ということに、夫も気づき、私自身も同じように感じることができたからです。
海外の人だったら、そこまでしなくてもいいよ、っていうようなことかもしれないのだけれど、例えば、おつりを渡す時も両手を添える、靴をそろえて脱ぐ、自分の意見を言う前に相手の気持ちを察しようとする、あからさまな自己主張をしない。

これは、これまでいろんな国の人たちと接してみて、私が日本人って一番素晴らしいって実感したところです。シンプルなことだけど、これは両親が日本人であっても、海外に長く住んでしまった子どもたちはなかなか身に着けられません。子どもにはしっかりと日本人特有の美しさを身に着けてもらいたいと思い、私たち夫婦は日本に戻ってきました。

学校での先生の発言の仕方、子どもたちの振る舞い、教えてもらうこと、全部が自分に降りかかってくる。それで自分というものが出来上がってくる。そうすると、海外に住んでいたら、両親が日本人であったとしても、純粋な日本人としては育たないと思うんです。
日本の学校での係活動、給食当番、学校清掃、そういった活動や、町内会、地域との関わりなどから、だれに教わるでもなく、自然と日本人として身につくことが必ずあるんです。それは日本に住んでいないとできない。


ーこれまで日本で子育てをしてきて、ご自身の帰国子女としての経験と子育てとの間で葛藤はありませんか

子育てをしていくうえで、日本に住んでいると、まわりはみんな日本人だし、日本の考え方。私は小学校から中学校までアメリカの現地校で、人種がごちゃまぜのなかで過ごしてきたから、いろんな考え方、いろんな文化があるということを肌で感じてきました。

いま2人の娘は小4と小1で、日本の公立小学校に通っているからこそ思うのですが、日本の考え方っていうのはほんの一部、「常識だから」とか、「日本ではこうだから」っていう考えに縛られず、もっとオープンマインドでいいんだよ、っていうことは伝えていきたいと思っています。

実際にNPO団体で小学生向けの英語講師をしていますが、そこで高学年の子どもたちには多文化や多人種について少しづつ自分の経験をふまえて話をしています。
「日本ではこうだけど、海外ではこういうこともあるよ、それがいい悪いではないんだよ。だから、お友達と自分の考えが違っていても、それは個々人の立派なアイデアだから、ちゃんと自信を持っていいんだよ。」と話をしています。

子どもたちは内容もきちんと理解できています。我が子だけでなく、クラス内でも、こうした英語とは関係ない話も大切にして教えています。

娘たちには英語力よりまず日本人としてのアイデンティティをもってほしい


ー小学生になった2人のお子さんにたいして、どのように育ってほしいとかありますか

(少し考えて)ううん、どうだろう。私自身が海外に長くいて、アイデンティティでちょっと困っていた時がありました。骨なんてどこにでも埋めたらいいじゃんって思って生きていました。
いま2人の子どもたちはずっと日本で暮らしてきて、“日本人としてのアイデンティティ”とか全く考えてないと思う。

だけど、二十歳くらいになったときに、誰しもぶち当たる壁があると思うの。「私ってどういう人間なんだろう」とか「今後どうなっていくんだろう、どう生きていくんだろう」って考える時が。
その時に「私は日本人で、自分はこういう人間です。」というような自己をもってほしいんです。

なぜなら、私はふわふわしていたから。

アメリカにいた頃、小学校で行事や集会のようなものがあると、まず初めに胸に手をあてて、アメリカの旗への宣誓をするんです。最初なんて何をやっているのかも分からずにやっていたのが、何度もやっているうちに、英語で言えるようになり、その意味が分かるようになり、そうしていくなかで、「ああ、私はこうしてアメリカ人になっていくのね」って思っていたんです。

そして、アメリカの友達の話すことも分かるようになり、自分の言いたいことも言えるようになってきた時には、私はアメリカ人なんだ、と感じていました。
そうなると日本という国が異文化になり、異国になっていきました。だから、日本に戻ってきたときに苦労したんです。日本が自分のなかでは異文化だったから。
当時はこの国、おかしいって思っていました(笑)。
たとえば休憩時間に隣のクラスの友達に会いに行ったら、勝手に他のクラスに入ってくるなと、隣のクラス担任に叱られたり、みんな一緒に同じことをしていないと、その環境の枠からはみ出ている人は目をつけられてしまう。

アメリカやオーストラリアにいたころは多文化多民族のなかにいたせいか、日本のように皆同じではなかった。実際に 「ナニ人ですか?」 と聞いたら、本人も 「うーん、パスポートはいくつか持ってるけど‥・・」 とか 「親は〇〇人と〇〇人で、私は前はどこどこに住んでいたんだ‥・」 みたいな反応があるくらいで、ごちゃまぜだった。

でも、これまでの経験を経て、日本人が日本人らしく、ということはこだわらなくてもいいのかもしれないのだけど、でも今は、日本人に凄く魅力を感じます。
だから、子どもたちにも、しっかりと日本人としてのアイデンティティをもってほしいと思うんです。

もちろん、子どもたちには英語はできてほしいとは思っています。英語の文献を読むことによって知識が増えたり、世界は広がります。でも、英語はもっと大きくなってからでも間に合うと私は思っています。

社会人になって再び海外へ渡り、オーストラリアで看護師として働く中で、より日本人の良さ、日本文化の素晴らしさに気づくことができました。そして、いま、その日本の良さについて、周りの子どもたちにも私なりに伝えていけたらと願って講師活動を続けています。

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(インタビューここまで)

最後に

今回のインタビューを通して、私は自分が日本人であることが誇らしく思えました。インタビューの雑談の中で、深町さんが言っていたエピソードを思い出しました。
「日本人の“楽しみ”のとらえ方って深いと思うんですよ。海外の人からは、凄くまじめだなと思われることかもしれないのだけど、ひとりの人間として、成長することを“楽しい”と考えていると思うんです。対して海外の人は、幾度となく仲間と集まってパーティをすることを楽しみと捉えているような人たちが多いように思います。日本人は静かにそれぞれの楽しみ方を見つけることができる人種だと感じました。」

私は日本生まれの日本育ちなので、日本人を多文化のなかでみる経験をしたことはありません。自然と身についている日本人としてのアイデンティティがあるからこそ、海外という外の世界に答えを求めてしまう傾向にあるのかもしれません。
空気を読んだり、まわりを気遣ったりという行為は、私たち日本人同士の間ではネガティブに捉えられがちです。しかし、単一民族だからこそ身についたものは海外の方から見れば長所になる部分がたくさんあるのです。

この情報化社会の中で、この日本で子育てをしていくことは、ときに窮屈だったり、苦しくなったりする場面が多々あります。だからこそ、グローバルかつローカルな視点をもって、まずは身近な人たちとのかかわりの中から自分の生き方を模索していこうと思いました。
深町さん、多くの気づきをいただき、ありがとうございました。

(インタビュアー&ライター nao)




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