見出し画像

近代史跡めぐり(レポート)

2月14日(日)

西大畑町公園をスタート。

まずは、地獄極楽通り。現在の西大畑公園はかつて刑務所が建っており、当時の名残を感じさせるレンガがある。

そして、西大畑公園を左手に右側を見ると、料亭「行形亭」。一方はまるで天国、もう一方は地獄。これに因み命名されたと言われる。

次に、行形亭隣にある旧斎藤家別邸。かれこれ10回位は行っているのだが、毎回疑問に感じていたことが。それは…俺が見た新発田藩主溝口の誰かが描いた絵があったはず…だが、ない?

そこで職員の方に尋ねると、結構な頻度で掛軸を替えているらしい。それだけ齋藤家が絵や掛軸などを大量に所有しいたという事が窺える。何より、新発田藩主溝口直諒は茶道にも精通しており、旧斎藤家別邸はお茶会も催すと来た。もしかすると、あの時見た絵は溝口直諒?の描いたものか。パッと調べる手立てが出てこないが、また折を見て再訪し、掛軸等どこを入れ替わったかなど調べよう。

続いて、齋藤家別邸から歩いてすぐの「新潟大神宮」へ。ここには個人的に2つのテーマを立てておいた。1つは、新潟随一の文豪坂口安吾の生誕の地であること。もう1つは、ここに会津藩ゆかりの石碑が建っていること。(坂口安吾に関して言えば、親戚にあたる人物が会津藩士との深い繋がりもあった。その会津藩士もまた凄い人だった…)

写真は、新潟大神宮内にある「殉節之碑」。現在では、大神宮の敷地内に社務所が建立され、ガラリと雰囲気が変わった。

この石碑に関しては、会津藩9代目藩主松平容保公が揮毫、会津藩士南摩綱紀(羽峯)が撰文したものとされている。この石碑の建立にもまた深い歴史があり、国内でも大戦争とされていた「戊辰戦争」。奥羽越列藩同盟(東軍)に与していた会津藩は敗北の後、各地に謹慎を言い渡されていた。会津藩士が携えていた刀等を売り払うと同時に、地元新潟の民から協力を得た資金で建てたのがこの石碑。故に、思いの強さがこの石碑に込められていると感じる部分があるのだ。

撰文を担った南摩綱紀は新潟にも影響を残しており、高田を去り東京にいた綱紀に教えを受けた針村(現在の上越市板倉区針)出身の増村朴斎は、地元に有恒学舎(現在の県立有恒高等学校)を設立するなど、戊辰戦争以後明治期に入ると、新潟は教育分野において目覚しい発展を遂げている。

※余談ですが、全国初の公立小学校は新潟県である。

最後に西海岸公園まで。ここにある竹内式部像に関しては、前回のまち歩きにて共同墓地に建立されている墓を案内したが、国内で初めて尊皇攘夷論を唱えた人物における第1号の処断者である。

白山公園には式部に纏わる石碑もあるので、是非セットで見るとまた違った視点で学べて面白いと思う。(但し、しもまち界隈ではない。)

昨今より続くこの情勢が落ち着いたら、参加枠を増やし参加者との意見交換を兼ねて、より良いまち歩きを企画出来たらと考えている。

そして、まだ見ぬ歴史の真実の奥の奥に思いを馳せて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?