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継之助の命日に想うこと

タイトルが、偉人「河井継之助」としましたが、俺自身特別な想いがある。それは、母の姉からある話を聞いてから、死ぬまでの研究・調査課題としたい大きなものを知ったからであろう。

祖父はこのことに関して母の姉以外には話していなかったようで、僕が個人として呼ばれて聞かされたのが、母の姉以外の身内では初めてであった。「これを読んでみて」。出された巻物をよく読むと…「河井継之助」?まさかな…と思って、本文を呼んだらうちの祖先の名前と出身町が書かれていたのだった。

何故に接点?と聞いたところ、事細かまでには分からないが、北越戦争に長岡藩が参加することとなった際、藩管轄内にて資金調達の依頼をして、協力した際に貰ったものだという。
筆跡は彼本人か否か今も謎だが、こういう類の協力に対し1人の庄屋に丁寧に巻物を残すところが、継之助の性格上意外だなと思ったところ。

※1868(慶応4)年8月16日、継之助は只見町の矢沢宗益宅にて破傷風により他界しました。継之助の墓所は全部で3つあります。

最初は、会津若松市建福寺敷地内とされる河井継之助埋骨遺跡です。継之助の亡き後も、暫く新政府軍の間では継之助の存命を信じたと言う人もいたとか。

2つ目は只見町の医王寺にある墓です。ここは、継之助の遺骨を火葬した際余った遺灰をここに埋めたと言われています。毎年8月16日には慰霊祭を行い、継之助を偲んでいるのです。因みにこの医王寺、小千谷市の慈眼寺の住職が兼務しているようで。

最後に3つ目は、長岡市東神田にある栄涼寺です。継之助はじめ、小千谷談判にただ1人同席を許された軍目付二見虎三郎らなどの墓もあります。他の2つと異なり、ここの墓だけ異様に削れてるのがお分かりでしょうか?
これは、河井継之助が北越戦争を起こした張本人であるが故に、当時の地元民が鍬や石を使い削った痕と言われています。

但し個人的に勘違いして欲しくないのは、北越戦争=舞台が新潟県内ということで、継之助が起こしたと確たる言い分は出来ないです。というのも、北越戦争の開戦日について解釈が異なり、三国峠の戦いという言い方をするのもあれば、小千谷談判翌日の片貝の戦いという言い方もあり、明確な線引きがないため、継之助が戦犯となると表現に違和感を覚えざるを得ないということですね。命日を迎えた今日、我が家の祖父が大切にしていた巻物を見た時の光景や、母の姉から聞いた巻物の意味を聞いた時の状況諸々頭に浮かべながら、こんなことを考えた次第です。

最後に、河井継之助(只見ではつぐのすけ)記念館にあるマスコットキャラ「つぐたん」でしめます(笑)
因みに只見の館内は撮影OKとなっておりますので、機会あらば行ってみてください。

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