2020.04.18 グリム童話のおもしろ



グリム童話を読んでいる。

画像1


赤ずきん、灰かぶり姫(シンデレラ)、ヘンゼルとグレーテルあたりは小さい頃読んだことがある人が多いと思う。ディズニー映画になったラプンツェルの原作も、グリム童話の同タイトルの話である。
グリム童話とは、ドイツのグリム兄弟が元々西ヨーロッパに伝わっていた民話や伝承を子どもでも読みやすいように校閲したり修正したりしたものをいうらしい。ネットでそう読んだ。
日本で広く親しまれているものは7回ほど修正が入ってマイルドな読み応えになっているが、グリム童話=ホラーなものをイメージする人は、初版の印象が強いのだろうと思う。
比較的に短く、主張がしっかりしているのが特徴で、空いた時間にサクッと読めてちょうどよく、持ち歩くのに便利だ。
読んだ中で引っかかったところを、4つの作品とともに紹介したい。

※この先、鍵括弧内の文章は引用


ーーーーーーーーーーーーーーーーー


ブレーメンの音楽隊

言わずと知れた名作である。動物たちが音楽隊に入りに行く途中に、泥棒の家を乗っ取ってなかよく暮らしていくという話。ハッピーエンドのように書かれてはいるものの、これが泥棒の家じゃなかったら、など、よくよく考えると腑に落ちないストーリーではある。
おもしろいなと思ったのは、最後のところ。
「四匹のブレーメンの音楽隊はその家がたいそう気に入ったので、それからずっと、そこに住み続けたということです」
ここで終わってもいいのに、蛇足のように、こんな一文がついている。
「この話をきいたのは、ついこのあいだのことなんですよ」
これがあるだけで、この話の怖さはガクンと跳ねあがる。今もこの世界のどこかで四匹は一緒に暮らしているのかもしれない、と、得体の知れない緊張感がはしる。
グリム兄弟に、現代のわたしたちを他人にしておくつもりはないのだろう。どの時代の人が読んでもいいような仕掛けになっている。


テーブルとロバとこん棒

いたずらなヤギのせいで家を追い出された3兄弟が再び父のいる家に戻るまでにお宝を手に入れるものの、同じ宿屋で偽物とすり替えられてしまうという、なんとも間抜けなお話。
結局末っ子が2人の兄たちの分もやり返し、長男のお宝・ごちそうが出る木のテーブル、次男のお宝・呪文を唱えると金貨を産むロバを連れて帰ることに成功。家に戻り、次男に呪文を唱えさせるのだが。
「二番目の兄さんが、ブリックレブリット!と叫ぶと、とたんにひろげた布の上に金貨がばらばらと、まるで夕立のようにいきおいよくふってきました。金貨はいつまでも止まらず、お客(親戚たち)はみんなもちきれないくらいもらいました」
この文章の後、確固書きでこんな文が入る。
「(あなたもそこにいたかったなあ、という顔をしていますね)」
この一文で、バッと現実に引き戻される。たとえそんな顔していなかったとしても、ハッとなる ーそうだ、この世界にはそんなロバはいないのだと。
せっかく物語の中に入り込んでいたというのに、急に“この本を読んでいる自分”を意識しなければいけなくなる。見ていると思ったら見られていたという、本ではなかなかない仕掛けでおもしろい。
口調も優しい。グリム童話とこの時代のそれまでの物語との大きな違いは、風景描写や心理描写・会話文が多く、口承のままのかたちを保っていたことにあるため、物語は呼びかけの文体を含みながら進んでいく。
「それからヤギがどこへいったかは、だれにもわからないそうですよ」
この話の最後も呼びかけの形で終わる。
あなただけがわからないのではなく、わたしも、これを読んでる他のみんなもわからないんですよ、とこっそり耳打ちされたような、そんな感情になる。語り手と読者の距離が近く、仲間意識さえ感じる。
グリム兄弟は見えない相手ながらも読者を確認し、誰のことも置いてきぼりにしないでいてくれるのだ。


命の水 

この作品に顕著なグリム童話のおもしろさは、登場人物たちの欲深い心の声がそのまま書き起こされるところだ。
命の水は、病に苦しむ王様のため3兄弟が1人ずつ秘薬・命の水を探しに行くという話である。
危険だからと王様は止めるが、長男は言うことを聞かず出発する。王様思いのいいやつのように映るが、読んでいくと。
「命の水をとってくれば、王さまはわたしを一番かわいいと思って、この国を譲ってくれるだろう」
実際のところはそんな純粋な気持ちではなかったことがわかる。そのあと長男が戻ってこれず(こういう、悪く描かれているキャラクターというのはだいたい戻ってこれないものだ)、続いて次男が出発するのも、表向きの兄救出の使命感や王への思いとは裏腹に、
「兄が死んだとしてもちょうどいい、これでこの国はわたしのものになる」
と書かれている。こう書かれてしまっては次男のその後は読まなくてもわかってしまうものだ。心情が描かれていない末っ子(描かれていないということは、純粋に王様を助けるために出発していったのだろう)は、無事命の水までたどり着くことができた。この後ももう一展開あるので、続きは各自読んでほしい。
綺麗事を許さず、登場人物たちの本音をそのまま書き記していく、それが、ホラーの要素にも繋がっているのかもしれないと思う。登場人物の人間臭さに、藤子A先生みも感じる。
次に紹介するカエルの王さまにもこのことがいえる。


カエルの王さま

カエルの王さまもブレーメンの音楽隊同様、グリム童話を代表する話だ。
最初の、カエルが助ける見返りに友達になってほしいと申し込んだシーンの、お姫さまの心情はこうだ。
「考えなしのカエルがなにをしゃべっているの、人間の友だちになんかなれるはずがないんだから、なかまといっしょにゲコゲコ鳴いていればいいのよ」
ひどすぎて読んだとき笑ってしまった。しかもこの後、約束なんて守る気がないにもかかわらずお願いを聞いてもらい、叶ったらすっかり忘れてカエルを置いてけぼりにしてしまうのだ。
この話が更に滑稽でおもしろいのは、このカエルが実は魔法のかけられた王子様で、しかもイケメンだったため、呪いが溶け人間の姿になったカエルをお姫さまはすっかり好きになり、友達になり、最後には花婿にして、それで“ハッピーエンド”ということになるところにある。ここまでくるとあっぱれというべきか。こんな掌返しを受け入れる、カエルもカエルだと言いたくなる。
これは一貫していえることだが、グリム童話には美しいものが偉い・上というなんともいえない考え方が見え隠れしている。実際、マレーン姫という話に出てくる王子の元結婚相手は、自分が醜いことを恥じ、人の目を気にするあまりとった行動をわるい企みと判断され、最後には首を切られてしまう。今ではありえないような理由で崇められたり蔑まれたりするので、書かれた当時の風習や一般的な考え方を知ることができる。




ーーーーーーーーーーーーーーーーー



この他にもグリム童話には200話近い話が存在する。

中にはブラックなシーンや時代遅れな考え方もあるが、物語に潜む教訓や個性豊かで愛らしい登場人物は、わたしたちがそうであったように、物心ついた頃にはもうそばにあって、大きくなってからも頭の片隅に残り、小さい子と触れた時読んで聞かせたくなるのだろうと思う。

上で紹介した要素として、3兄弟や魔法にかけられて動物にされた貴族は、グリム童話お決まりのというか、よく出てくるパターンである。その他にも魔女のおばさん、親切な人がくれたパン、その座を奪われ下請けの仕事をさせられる王女などもよく出てくる。
本もたくさん出ているし、有名なものになるとネットにもあがっていたりするので、読んでみてもらえたら。
わたしも全部読んでいるわけではないので、お気に入りのものが見つかったら、ぜひ教えてほしい。

ぽい!

おわり!




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?