ヴィランではない普通の人の狂気とは何か『アングスト/不安』

 先日、見に行ったこの映画、謳い文句は一つである。
「過激すぎて放映禁止になった映画」
 内容があまりにも過激すぎたせいで、初公開の1983年当時は何処の国でも発禁処分をされ、ほぼ上映されなかったという曰く付きの映画が、なんとか今公開にこぎつけたのだというのが、売り文句の一つとしてどの媒体でも宣伝されている。文脈としてはホラー映画としての一つの新しい形という雰囲気も取れる言い方であった。
 個人的にホラー映画は好きである。特に発禁なんていう箔がついたものを見ると、どんな過激で、残虐で、センセーショナルな映像を見ることが出来るのだろうと心躍らせてしまうタイプの人間である、僕は。
 というのも、人の心の中にある残虐的で過激な映像というのは無限の想像力をもって作られるものだからだ。別に恋愛映画や人情もの、感動的な史実映画などを否定したいわけではないし、否定する気もない。それはそれで、胸打つものだ。大仰なエンターテイメントも好きだ。それも無限の想像力が作り上げる総合芸術である。言うことがでか過ぎて、今、あまりの座りの悪さに床で転がっている。主語がでかくなると出る特有のアレルギーである。なんだよ無限の想像力って。脳みそのリットル数は大体一緒だぞ、人間みんな。それはそれとして、いかに残酷にするのか、いかに過激な絵を作るのかというのも、一つのエンターテイメントの産物である。色々な化け物を人は作ってきた。ブギーマン、ジェイソン、フレディ、貞子、有名どころをあげるだけで延々と書き連ねることが出来る。もっと引いていえば、バットマンシリーズのジョーカーも様々な角度で描かれ続けるヴィランであろう。そう、人はどこかホラーを見るときにヴィランを求めているのかもしれない。そいつが、どんな残虐で、残酷で、理解不能な思考回路持っていて、僕らが今まで見たこともない無残で過激な地獄絵図をスクリーンの中に作り上げてくれるのかを心待ちにしてしまう。ホラー映画というのは、そういう楽しみ方をするものではないかと思っていて、そういう意味で、鳴り物をボンゴボンゴ叩きながら公開される『アングスト/不安』に対して、僕は強い期待を持って、劇場に足を運んだのである。

 結論で言えば、とても地味な映画である。
 今までの少ないホラー視聴経験と照らし合わせても、あまり残酷だとも言えないものだし、殺人鬼たる主人公もそういう意味では「今までこすられ続けてきたサイコパス」像から抜け出してもいない。事実を基にした殺人鬼というのも、ある意味ではよくある設定である。だが、僕はこの映画を見終わった後で、映画館の近くにあるスターバックスでコーヒーを飲みながら、小一時間ぼんやりしてしまった。そして、滅多に買わないパンフレットをじっと読んでしまっていた。これを買った理由は色々あるが、一番自分として重要なものが「結局、主人公の名前は、なんだったのだろう」である。誰も彼の名前を呼ばない。一人称視点で進み、彼を知るものは誰もおらず、ただいるのは死んでいく人間と、死ななかった人間と、犬しかいない。誰も彼の名前を呼ばない。一度もだ。だから、僕は彼の名前を映画の最後まで覚えることは出来なかった。そういう映画だ。

■あらすじ
 実際にあった凄惨な事件を基にしているので、ネタバレも何もないとは思うが、とりあえずネタバレ有で書いていく。
 モデルとなったのはヴェルナー・クニーセクという男である。
 wikipedeiaに当該の人間の記事があったのでリンクを載せておく。

 ヴェルナー・クニーセク

 映画はヴェルナー・クニーセクことKが老婆を撃ち殺すところから始まる。冒頭で裁判記録の朗読に近い解説がずっと語られる。妾の子であった彼は敬虔なクリスチャンである老婆から疎まれ、修道院に送られるがそこで動物虐待を行い、また家へと戻される。そこで義理の父からも虐待を受け、ある日、母親をナイフでめった刺しにしてしまう。その刑で服役、出所後も強盗を繰り返し、そして冒頭の老婆を撃ち殺したことで十年刑務所に服役することになると語られる。そして、出所後の就職活動を行うため、三日間の執行猶予を与えられ、外に出ることから話は進んでいく。
 主人公はタクシーに乗り、女性であった運転手を森深くで殺そうとするも、失敗。急いでタクシーを降り、逃走した先で一つの家を見つける。誰もいないと思った彼は窓を破って侵入。するとその家に住んでいた足の悪い少し知恵の遅れた男と犬と遭遇する。ここには人が住んでいる。探索をしていると、家主である老婆と娘が帰ってきてしまう。
 娘と母親を拘束し、家の二階へと逃げた息子を風呂に沈めて殺害。その後、一階に戻ると母親の方は病気のせいかすでに死に絶えていた。どうにか逃げ出した娘に気づき、それを追い、ナイフでめった刺しにして殺害。
 「死体と共に次の被害者を監禁してやる」
 そう思いながら、被害者たちが乗っていた車のトランクに三人の死体を入れ、助手席に犬を乗せて走り出す。そして、コーヒーショップに立ち寄り、そこにいる全ての人間を監禁してやろう、そう妄想していると、警察が来て、トランクの中身を見られてしまう。

 大まかなあらすじで言えば、これだけの話である。
 殺し方も実に地味だ。
 障碍者の男はただ風呂に沈めるだけだし、母親に至っては勝手に死んでしまっている。唯一、そういう意味で派手な描写といえば、娘の殺害だけだが、この映画、基本的に一人称視点のカメラか主人公の顔もしくは上半身を写すのがメインなので別に何か大層な描写が繰り広げられるわけではない。絵面としては『ブレアウィッチプロジェクト』並みに地味だ。

■彼はなんだったのか
 この映画は基本的にKのモノローグだけで話が進む。
 サディズムを持った自分は人が恐怖の顔で滲むのが見たいのだ。自分の子供が死んでしまった姿を母親に見せつけてやりたい。そんなことを言いながら家の中を探索したり、街を歩き回っている。殺人が楽しい。殺した後は頭が冴え渡るようだ。ずっとそう呟き続けている。自分は妹や姉に虐待されていた。一度、妹を殺そうと思って殴ったとき、彼女が浮かべた恐怖の表情が忘れられない。そんなことをずっと言っている。1983年であれば衝撃的なキャラクターであったかもしれないが、2020年の今となっては随分と擦られ続けた殺人鬼の人格である。というのも、鬼畜系ブーム、プロファイルによる異常殺人鬼たちの分析、そんなものが90年代からゼロ年代にかけて大量に溢れ出し消費され続けてきた。もう見慣れてしまっているサイコパスである。
 だが。
 だがだ。
 この映画は、今まで僕は見てきた「消費されてきたサイコパス」とは少し違う部分がある。Kの描き方も含めてだ。
 僕が「消費されてきた」と感じるサイコパス達は頭脳明晰で、高い計画性と残虐な殺害方法、異常な執着を持って行動し、その理由付けとして「過去に度重なる虐待や異常な体験」をしてきたのだと説明され続ける。その上で、「だから僕たちとは違う、異常な化け物なのだ」と語られる。まるで、バットマンに出てくるジョーカーやMr.フリーズ、ペンギンのように。そこにカリスマまで感じる人もいるだろう。ヴィランが好きな人は結構多い。悪の美学というやつである。そうやってセンセーショナルでエンターテイメントの重要な役を担わされ、目の前の舞台で踊っている。それを僕らはポップコーン片手に大喜びで見ているのだ。時には「こうやって残虐な描写を楽しんでしまう自分自身にも異常性はあるのさ」みたいに嘯く奴も出てくる。そういう考えは高校卒業までに捨てておいた方が良い。アラサーに片足突っ込んでも同じようなことをTwitterで言っていると確実に友達をなくすと思う。
 だが、Kは口ではそう言っているだけなのだ。自分は残虐な人間だ。この出所期間の間に壮大で緻密な殺人計画を実施に移すのだ。僕の妄想を現実とするのだ。殺人は楽しい。僕の。僕の。
 そういうだけだ。
 だが実際の犯行は別に何の緻密さもないし、慎重さもない。ほぼほぼ行き当たりばったりで拘束したり、追いかけ回したり、じたばたともがくように犯行を重ねるだけだ。そして、その間にモノローグはなく、びっしょりと汗をかき、終始落ち着きなく息を荒くし。
 不安で胸を締め付けられているような顔をする。
 殺さないといけない。自分は殺さないといけない。
 そう言い聞かせているかのように、不安そうに、おどおどと怯えながら、つたない仕草で犯行を行っている。衝動的とも言えない。ずっと追い詰められた顔をしている。
 何もかもが終わって、一息ついたところでモノローグが挟まる。だが、語っている顔は、何処までも不安そうでしかない。僕が今まで見た愉快な殺人鬼達のような余裕は何処にもない。
 そして、最後のシーンで死体を見つかったとき、少しだけほっとしたような顔をしている気もした。

 この犯人像であれば、同情的にも、もっと派手な快楽殺人者にも仕立て上げられるし、今の人たちならそう作るだろう。なんなら彼を敵として、それを追い詰める人たちが主人公だ。ヒーローに倒されるヴィランとして描かれるだろう。そして、観客からは「なんてありきたりな敵なんだ」と罵られるに違いない。

 だが、僕は見終わった後で「彼は誰よりも普通に生きようとしていただけなんじゃないか」とそんな風に感じていた。そうしたいが、そうできなかった。だから、言い訳を続けなければいけない。僕は、快楽殺人者なんだ。そう自分を騙さないといけなかったのではないかと。
 だから、この映画は何よりも過激なのだ。
 だって、そうやって言い聞かせなきゃいけない人間なんて、何処にでもいるんだから。そして、「ありきたりなサイコパス」であることそのものが、怖い。何処にでもいちゃまずいんだ、殺人鬼なんて。
 彼は、何処にでもいる、普通の、ちょっと残念な生い立ちの人でしかなくて、ずっと不安なまま、人を殺し続けないと生きていけなかった、そんな悲しい化け物で。そして、それは道が違うだけの僕自身なのだ。

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