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やっぱり私は会議中にお菓子が食べたい—頑張りを強要しない共助・共生社会へ


 ここまでのインターンとしての私の働きぶりについて先日コメントをもらったのだが、その中で「私が会議中によくお菓子を食べていること」についてのご指摘があった。大前提として、それは善意のアドバイスであり、伝えてもらったことに感謝している。ただ、会議中の飲食が本当に許されざることなのかというのは、日本社会の有り様を一つ象徴する根深い問題だと思う。だからこの問題に関してここまでの自分の考えをまとめ、今後の行動指針を定めたいと思う。





なぜ私はお菓子を食べるのか


 なぜ私はお菓子を食べるのか。結論から言うと、食べたいから食べてる。食べた方が良いと思うから食べてる。

 「食べたい」とか「飲みたい」という感情は本能的なものなので、その欲求が膨らんでいるときの人間は論理性が著しく削られていると思う。

 この状態とミーティングというものは非常に相性が悪い。だから私は、空腹が頭を埋め尽くしている自分をそのままにするよりかは少し栄養を補給して思考を取り戻す方が自分のパフォーマンスを上げることになるし、結果として全体のメリットになると思ってる。だからお腹が空いたらお菓子を食べる。




なぜ皆はお菓子を食べないのか


いくつかの仮説がある。

①そもそも食べたいと思わないから

世の中には一日一食しか食べない人もいるので、最初から会議中にお菓子を食べたいと思わない勢力はそれなりにあると思う。ちょっとミーティングで話したり考えたりするだけでエネルギーが不足する私の燃費の悪さこそがこのトピックの発端になっているわけで。


②食べながらの会議特有の悪影響を避けるため

これもある。例えば机や手が汚れるとか、咀嚼音が気になるとかは「食べる」を導入することで直接的に生まれるデメリット。それに、私も音楽を聴きながらの勉強は出来ない派だから、集中力が分散される懸念はあり得る。


③食べ「ながら」は失礼に当たるから

どんな行動もTPOを反映することは重要。実際に結婚の報告をしながらじゃがりこ食べている人や、ガムを噛みながら謝罪をする人がいたら私もどん引きする。話すこと、聞くことに集中する必要から食事は控えるべきだという場面は十分に想定できる。



ここまではいい。全然理解も納得もできる。ただ、今日の本題はこれ。

④公の場では食べないことが常識だから


これは③が礼儀や秩序が重んじられるこの社会全体に広がっている状態だと言えるだろう。でも、根底にあるのは、もう少し別の思想だと思っている。



ここに、高校時代のエピソードを一つ。

北海道は涼しいというパブリックイメージがありながらも、エアコンのない夏というのは結構苛酷で、30度を優に超える教室を2台の扇風機だけで何とかしようという無茶な試みが毎年行われていた。

ある日の数学の授業の時間、一人の生徒が水筒で水を飲んだ。暑さしのぎにこっそり飲むのは皆がやっていたことだけど、なぜだかその子だけ先生に見つかった。先生は机を蹴りながら信じられないくらい怒った。「何のために飲んだ?」「誰が飲んで良いといった?」というばちくそくだらない罵声が多分10分くらい響き渡り、その生徒は謝罪を余儀なくされた。


8月の暑さで頭がクラクラしそうなのに、当然授業にも集中できなくなるのに、水分補給すら許されない理不尽さ。怒りを通りこして呆れかえっていたけど、その教師の論理を整理すると、そこには「俺も水飲まないで頑張ってんだからお前らも飲むな」という発想があることに気付いた。


いやいや、どうぞどうぞ。先生、あなたも疲れたらご自由に水を飲んで下さい、ともうそれしかなかった。先生も生徒も暑くて喉が渇いている。じゃあ、両者飲みたくなったら飲めば、オールオーケー、皆ハッピー。本来それで解決される話だった。


つまり何が言いたいかというと、非常識とされているのは飲食することそれ自体ではなく、相手や周りがやっていないことを自分だけがやること。だから、「相手もそれなしで頑張ってるんだから自分もそうしないと」といった協調の暗黙知の結果として、食べたくても我慢して食べない人、また飲みたくても耐えて飲まない人が世の中には一定数いる、と私は思う。

(ちなみに、授業中の水飲み禁止令は教育委員会だか文科省だかの指示があった途端なくなりました。上を待たなくても目の前にいる人の声を聞いていたら分かること。This is 日本社会。)




自分で頑張れないって分かるときはやっぱ頑張れない


 私、言霊というものを昔からあまり信じていない。山岳部で山に登っているとき、私が疲れたというと他のメンバーに「疲れたって言うから疲れるんだよ」と諫められることがあったんだけど、いや疲れは疲れだろーって思ってた。自分が実質的にどの程度疲労が溜まっているかということは、自分が一番よく分かってる。それに、疲れてなんかないと精神論に頼って無理をするより、休憩を取ってもらったり順番を変えてもらったりして合理的にその疲れを解消した方が隊全体の流れが良くなるに決まってる。

 協調性や周りのことを慮ることに価値を置く日本人の精神性は本当に素晴らしいし、これからの社会をつくるに当たってはむしろこの文化をいかに前向きに広げられるかが重要だと思う。だからこそ、この考え方が個人の自由な選択を奪うことに繋がり、同調圧力や閉塞感という言葉に言い換えられてしまうのが本当にもったいない。0か100かの議論は必要なくて、良い部分は大切にし、悪い部分を直す努力をすればいい。

 で、結論。どんなに周りが皆頑張っていたとしても、自分がしんどいときはやっぱりしんどい。自分が頑張ってるから相手も頑張れっていうのも、相手が頑張ってるから自分も頑張らなきゃっていうのも絶対にいつか疲れちゃう。私達は頑張りの協調、自己努力の強要からもっと解放されるべきだと思う。


(まあ一応、例外は関係性や事態の緊急度によって生じ得ることは付しておきます。それがここまでの議論を覆す要因にはならないけど。)


疲れたら我慢しないを、令和の常識に


で、なぜ私がこのテーマを会議でお菓子を食べていいのかという小さな事象から話しているかというと、本当に本当にしんどい状況にあるときにちゃんとSOSが出せるようにするためには、普段からその声を出しやすくする環境作りが必要だから。

持久走で頑張って走っていた女の子が貧血で倒れちゃったとき、先生は「何でもっと早く言わなかったの?」と言った。途中で休みたいですと言えなかった女の子が悪かったのか?本当に?私はその言葉を発しづらい状況をそれまで作っていた先生達が、更に言うなら世の中が悪いと思う。


ちょっとずつで良いから、私はその「言いづらい」を変えたい。私は講演の類いではいつも自分から手を挙げて質問できるそこそこ勇敢な少女だし、18歳という年齢も空気読めない世間知らずを装って(まあ実際そう)こういったアクションを堂々と起こすことに最適なので、既存の文化に風穴を空けていきたい。怒られるのは怖いけどね。でも私はやる。


一人の人間が24時間完璧ではないことを許容し、自分が大変なときは助けてもらって誰かが大変なときは助けられる。そうやって一つのチームとして乗り越えることができるから、社会って素晴らしい。自己責任の個人努力を押しつける社会は、社会とは呼べない。誰かが声を出せる土壌とその声を受け入れる自分の器の大きさを養いたいと思っているので、私がプリッツ食べ出してもその直前の議論があまり頭に入っていないことは許して下さい。





 


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