人生とは、キャパ!!!

最初の頃は、結局何もできていないじゃん、留学に来たことに何の意味があったのかなって落ち込んだけど、なんだかんだでアメリカに来てからの1年半の経験は全部がつながっているし、18歳当時の悩みをスッキリ消化して前に進んでいる気がする。それが全部「できる範囲で自分のことをやる。それが自分だし、それで十分、十分だ」でつながっている。

当時悩んでいたこと一つ目。度を超えた完璧主義。
例えば、大学のアプリケーションエッセイが、すごく悪いと思っていたけど誰にも見せられなかった。中途半端なエッセイを見せたら、それが自分だと思われる気がして、完璧だと思えるまで誰にも見せたくなかった。大学に来てからのレポートも、ろくな議論もしていないつぎはぎのようなクオリティで出す度に、朝から晩までもっとちゃんと向き合えばいいものが書けたはずなのに、こんなものを出して恥ずかしいと思った。

今は、自分は、その時の生活の中で自分が生み出せたものが今の自分なのだし、それが精一杯だったのだということを許せるようになった。あと、この世の中のほとんどのことはずっと続けていればだんだん上手くなっていくものなので、今の自分がよくできていないというだけでこの世の終わりのような落ち込み方をすることはなくなった。ある意味高校くらいの時はまさしく今ここだけで生きていたから、教授に言われた「Communication must be continuous conversation」という言葉が印象に残っているけど、全体の中での一つの過程としてそれぞれの作品を俯瞰できるようになったのは大きいかな。


二つ目。金持ち娘としての罪悪感・責任感との向き合い方。
私よりはるかに賢い人が金銭的な事情でアメリカに行くことを諦めなけらばいけない一方、私はアメリカに来てしまった。来てしまったからには、人生全てを社会貢献に捧げて馬車馬のように働かなければいけないと思う責任感。でも、自分はそんなには頑張れないよという正直な気持ち。でもその気持ちを選んだら私は自分の責任を放棄することになるのではないかという罪悪感。

今は、自分ができる範囲でベストを尽くすことが自分の最大限の成果を生むことと同義だと思えるようになった。アメリカ生活で理想と現実の葛藤を繰り返したことで「キャパ」という概念が新たに導入された結果、自分が良い思ったとて手が回らないことはたくさんあるのだから、無理に〇〇しなければいけないと考えることの無意味さを理解した。もう一つ、今考えるとあれらの感情は、自分は社会か個人かどちらかしか取れない、どちらも大切だと考えることは矛盾だという前提に基づいていた。それがはっきりと、自分がこの上なく恵まれた環境にあることを理解し感謝することと、自分がそれを使いながら自分の道を突き進んでいくことは両立すると思えるようになった。金持ち娘以外の、自分で組み立てている新しい人格がちゃんと確立してきて自信を持てるようになったからだと思う。あるものは手札として自分の成長のために使おう、そして成長した自分ができることをできるだけ頑張ろうということを今は雑念なくスッと言える。


三つ目。やりたいことが分からない。
これ、正確にはやりたいことが分からないではなくて、分かってたけど本当にそれで良いのかに自信が持てないだった。小学校の頃から学校の先生になりたいと思っていたし、中学校の頃から社会学を勉強したいと思っていたし、何となくずっと将来は北海道に住んでいたいと思っていた。でも、まだ他の世界も何も見ていないでそれが良いって言って良いのか分からなかった。

これも背景には「何かすごいことをやらなければいけない」「こんなしょぼくて良いのか」という世間のヒエラルキーに支配された思考がベースにあった。最初は遣唐使のように、「アメリカ先生から学べることを日本に持ち帰るんだ!!」みたいな気持ちがあったし。でも本当に違うっていうだけで(法律やベースの宗教などが)、優劣に落とし込むのが間違っていると思った。昔からやりたかったことをやること、自分が居たい場所で居たい人といることは何も間違っていないし、むしろそういう自分が自分の範囲として定める分野の中で精一杯頑張るのが人生を幸せに生きる上でも何かの成果を目指す上でも大事だなあと。



私にとって留学は、自分という人間の発達と思春期からの脱却をサポートする役割を大いに担ってくれたと言える。こんなに大金がかかる学部留学に価値はあるのかということに受験当時悩んだけど、私の人生にとってすごく価値があったことだと思う。ふと、やっとそう思った。


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