「負の性欲」と嫌悪感

twitterで「負の性欲」という語を見かけた。それで人々は盛り上がっているらしい。なるほど確かに,最近のtwitterでは性に関する話題がよく共有されてくるし,関心を持たれるのも理解できる。提唱者はTLのモメンタムを掴んだ。

ザっと読んでみるに,他者への性的な接近動機が「正の性欲」で,回避動機が「負の性欲」と呼ばれているらしい。そして,ヒトがする交配行動の生物学的な性差を説明するのに使われているらしい。曰く,男性は正の性欲に動かされ,女性は負の性欲に動かされている,とのことだった。また,性行為の回避は,性欲の欠乏や不足として理解するよりも,より積極的な欲求として理解する方が適切だ,というようなメッセージも受け取れた。そのように表現すると,主体性や権利が強調されるような気がする。性別の二分法に押し込むのが適切なのかはよく分からないが,表現としては上手く言ったものだと思う。

負の性欲は嫌悪なのか

僕は嫌悪感の研究者だ。なので,これを見てすぐに「あぁ嫌悪(disgust emotion)の話か」と我田引水してしまった。嫌悪は「キモイ!」の難しい呼び名だ。いわゆる基本感情のリスト内にも挙げられている。感情を定義するのは思いのほか難しく,しばしば心理学者はその働き(機能)を持ち出して感情の性質を説明した気になる。その立場から言えば,嫌悪は疾病回避の機能を持つ(よくまとまった論考はCurtis et al., 2011で読める)。2019年現在,その見方はほとんど支配的と言ってよい。この機能主義的な理解から派生したのが,Schallerの提唱した行動免疫という概念だ。なんだか凄そうなタームだが,何のことはない。ヒトは環境内にある感染や汚染のリスクを検出・評価し,嫌悪することで,その種のリスクを回避できる。そうしたプロセスを,生理的免疫になぞらえたアナロジーだ。研究は真剣かつ熱心に行われているし,そのアナロジーが活きる場面もある。しかし,その名称を真に受ける必要はない。よくできた心理学的な喩え話に過ぎないのだから。行動免疫の解説を含む論文を日本語で書いたので,関心のある人は読んでみてください(宣伝です。ここをクリック!)。

性と嫌悪:それらの葛藤

性行為はそもそも嫌悪誘発的だ。嫌悪を引き起こす刺激は嫌悪誘発子と呼ばれる。嫌悪誘発子には様々なジャンルがある。腐敗した食物,不衛生な環境,身体分泌物,身体内部の露出,等々。元も子もない言い方だが,性行為は身体分泌物まみれで不衛生だ。行動免疫のアングルから語りたいなら,性の健康医学財団による「主な性感染症一覧」なんかを参照しても良い。かように性行為は嫌悪される可能性を内含している。それは自然なことだ。しかし同時に,それはしばしばヒトを惹きつけても已まない。性的欲望と嫌悪は,それぞれ再生産と疾病回避という生物にとっての究極的なゴールを持つ。そして性行為はその葛藤の舞台に相応しい。

この葛藤に関して安直に考えるならば,性的欲望と嫌悪感は拮抗するのではないかと予測できる。つまり,片方が昴まれば,片方は鎮まる。少なくとも直観的には,そのような予感がある。それらは,接近と回避という拮抗する行動を駆動するからだ。この直観的なアイデアを評価するために,関連する研究を少しだけ見てみよう。ただし,ここで触れる研究は,「性的興奮」「性的覚醒」「性的喚起」といった生理的状態を対象としたものである。「性欲」でないことには注意してほしい。

性と嫌悪の研究から何が言えるのか

性と嫌悪に関する研究を長らく行ってきたOatenら(2019)は,一連の実験を通して,男性の性的興奮と嫌悪感の結びつきを議論している。曰く,性的に興奮していると,性行為に伴う感染症リスクを低く推定し,性行為に対する嫌悪が減弱する。そしてそれは,性行為への前向きな態度に帰結する。Borgら(2019)の研究結果もまた,男性の性的興奮と嫌悪感との関係を描き出している。彼女らが実験を通して取り組んだのは,「性的興奮状態の男性に悪臭をかがせ,実験的に嫌悪感を抱かせた場合,その性的興奮は減ずるのか」という問いだった。そして,この問いへの答えはYesだった。

これらを見る限り,「嫌悪が性的欲望(正確には性的興奮,性的覚醒)と拮抗する」という直観的なアイデアは,一定程度の実証的支持を得ているようだ。ただし対象を男性に限れば,の話である。女性も同じと考えてよいのか。負の性欲論は男女差を強調している。負の性欲論を嫌悪研究から理解するうえで,この問いは避けて通れない。好むと好まざるにかかわらず。

Zsokら(2017)は,女性を対象としたオンライン調査を行った。調査に先立って,彼らは「パートナーが魅力的であれば,性的興奮が嫌悪感を抑制するだろう。しかし,パートナーが魅力的でなかったり,病気の手掛かりが示されているならば,抑制は起こらないだろう」と予測した。しかし,調査の結果は予測と反するものだった。魅力や病気の手がかりがどうであろうが,そもそも性的興奮による影響自体が認められなかったのである。むしろ,魅力や疾病の手掛かりそのものが,性行為に伴う嫌悪へ影響を与えていた。つまり女性が性行為に対して抱く嫌悪は,性的興奮ではなく,魅力や感染リスクの推定と関連する可能性がある。男性とは違う,ということだ。

一方,Fleischmanら(2015)の研究は,これとは異なる結論を提供している。彼女らの行った実験では,事前に誘発された嫌悪感が,ポルノ映像に対する性的喚起の水準を低下させることが示されている。これは「嫌悪と性的興奮との拮抗関係」という直観的なアイデアと矛盾しない。Zsokらが示した研究結果との食い違いは,どのように理解すれば良いのだろうか。

Zsokらはアンケートでこの問題に取り組んだが,Fleischmanらは,実際にポルノ映像を見せ,性的喚起を膣フォトプレチスモグラフィ(膣壁の血流量を測定する手法)によって測定した。手法の違いが結果に直結したか,それともまた別の条件が影響したか,この相反する知見を統合するには,考えるべき事柄が少なくなさそうだ。結論は簡単に下せそうにない。もっとも,さらに詳しい人なら違うかもしれない。僕はそれを棚上げして,結論は誰かに任せる。ここまで読むの,苦労したでしょ?なのに……ごめんね。

嫌悪の正当性と「煙感知器」

そろそろ最後の話題にしよう。負の性欲論がもたらしかねない,目を覆うような結末。それは,キモい奴を避けるのは本能だし正当!という開き直りである。

嫌悪は正当か。個人にとってはそうであろう。誰かの嫌悪を他人が否定することはできない。だいたい,現にその人がそう感じているのだから仕方がない。では,嫌悪に伴う種々のリスク推定はどうか。しつこいようだが,不正確な推定に基づいていても,体験される嫌悪自体は正当化されうる。個人の体験として尊重されねばならない。しかし,不正確な推定に対しては,そうも言っていられない。嫌悪は排斥と相性の良い感情だ。嫌悪は非人間化と結びついている(ナチスとかルワンダの話が,この文脈でよく引き合いに出される)。非人間化(Dehumanization)という概念は,定義が難しく,論者の間で必ずしも一貫しない。とはいえザックリ言えば,対象を人間性の本質が欠けた存在とみなすことである。本質とは何か。それは時に「精神」だと語られる(諸説ある)。ObjectificationとかInfrahumanizationとか,非人間化とよく似ているが,少しずつ違う概念もある。ややこしいので,誰か解説してください。

話を戻そう。

行動免疫理論は,感染や汚染のリスク推定が嫌悪に結び付くのだと説明する。逆に言えば,嫌悪するとき,その対象には感染・汚染のリスクがある――それは本当か。

我々は何を手掛かりにそれらのリスクを推定しているのか。菌は見えない。肉眼で検出するには小さすぎる。一方,汚れは目に見える。しかし我々は,時に目に見えない汚れすら気にするではないか。臭いも関係ありそうだ。アンモニア臭のする食べ物は,腐敗している可能性がある。手触りはどうか。表面がヌルヌルしていたら,そこには菌が集まっているかもしれない。……もう良いだろう。結局これらは,知覚できる手掛かりを利用した推定に過ぎない。その推定が正確ならば良いのだが,残念ながら,それは擬陽性(本当は無いのに,有ると判定する)に偏ることが知られている。無い脅威を嫌悪するより,有る脅威を無視する方が危ない。だからその偏りは,生存というゴールを目指すうえでは理に叶っている。ちなみにこの偏りは,行動免疫のSmoke-Detector principle(煙感知器原則)と呼ばれる(喩え話は心理学の常套手段だ)。

我々は,幻を嫌悪する動物だと自覚したい。本当にしつこいようだが,体験される嫌悪そのものは正当化されうる。しかし,幻の立場に追いやられた時,人々から向けられる嫌悪は心底理不尽だ。幻への嫌悪に基づく過激な排斥は許容したくない。それが人間の仕様だとしても,それを乗り越えるのが,人間の知性ではないかと思う。これはもはや,祈りに近い。それは分かっている。それでもなお,そう祈っている。

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