第7話 馬鹿野郎てめぇこのヤロウ!は友好の言葉

 あれから、何時間経ったのだろうか。
 涙の垂れる眼前には、すりガラスの向こうなのではないかと疑いたくなるほどに形が歪んで見える妻の顔があった。
 そして、あなたを放って置く私はいないと、初めて見るスーツ姿の妻は言う。
 そうして怒られたのである。
「あなた、本当に私のことが見えていないのね、くどくどいう方じゃないけど――」
 と、くどくどどころか毒毒言われた。
 結果として飲んだくれのよったくれ、ヨレヨレでダレダレのサラリーマンは、世界と一緒に回る頭の回転径をしゅんと小さくさせながら、正座で痺れる足をあぐらに変えた。
「しかし、これからどうするのだ? 私が会社に戻る方法なんて……」
「大丈夫、そもそもあなた正式にはまだ会社に席があるもの。溜まりに溜まった有給休暇を消化中よ。会社って、そんなに簡単には社員を辞めさせられないでしょ? 今日言って明日に辞めろ、だなんてどんなに黒い会社だって労基が怖くて言えやしないもの。って、十数年働いて役職も付いているのにそんな認識もなかったの?」
 そう言われてみれば、確かにそうだった。
 正社員を1日で除外するなど懲戒処分でもなきゃ無理な話だった。
 挙句、よくよく考えれば、佐伯にしたって同じことだった。クビにしてすぐ辞めれるわけもなく、人事に書類が回っている間に社長に嘆願という名の威力制圧を働いたのであろう。


 はてさて、それはともかく家にも帰らず、帰ってくるなり今度はスーツ姿で私をときめかせ、むせび泣かせて幼児化させた彼女は、いったいこの数日何をしていたのか。
 そんな疑問は露とも知れず妻は、私を決戦に立ち上がらせるために机の上が一杯になるほどの紙束を私に示した。
「これが彼の素性よ」そう言って妻は、その何枚あるとも知れない紙の中から一枚の写真を取り出していた。
「これは?」
 手に取り上げてみると、そこには何もない、本当に何もないマンションの一室が写っていた。「彼の部屋よ」と冷たく言い放つ妻に、なんでこんな写真を持ってるいるの? と、ぞっとしなくもないが、それ以上に、佐伯が住む部屋が空っぽでることに驚きを隠せないのだ。
「これが? だとしたらここには誰も住んでいないということにならないか? さすがに物がなさすぎる」
「あなたの言う通りよ。ここは、彼の家だった場所よ。それも、一年以上前の話だそうよ」
 それでは、いったい奴はいまどこで暮らしているのだろう。確か、彼はこの住所まで行くために通勤定期の代金を毎月請求していたはずだが。
 そう思い首をひねっていると、妻は新たにもう一枚の写真を取り出してきた。
「そういうことよ。彼も必死だったのでしょうけれど。だからといって彼をあなたがクビにしたのは彼の素行の悪さから。わたし達が恨まれる覚えはないはずよ」
 手渡された写真には年のころ大学生と思われる女性と、そして二件の段ボールハウスが写っていた。妻の言う「そういうこと」の意味が分からず、視線を妻に戻した。
「表札が見えるでしょう?」
「表札? あ、ああ、加藤、佐伯……加藤さんのお隣は、アイツなのか?」
 驚愕とか何とかというより、より一層意味が分からなくなった。
「彼女、婚約者だそうよ」
 加藤という名字だけでは性別などわかるはずもなく、妻の一足飛びな話し方にも驚くが婚約者という癇に障る言葉にも驚いた。
「いや、いや。あいつは既婚者だ。嫁は実家に帰ったきり両親の許しを得られず、戻ってきていないと」
「それも真っ赤な嘘よ。偽装結婚で書類上既婚になっているみたいね」
 なんてことだ。彼の残した情報には、名前と性別以外に一切の真実がなかった。
「しかし、どうしてそこまで嘘で固めておいて、爆弾騒ぎなどを」
「その偽爆弾、写真の彼女が送り付けたものらしいわ。初めから偽物だとわかっていたのでしょうね」
「それがそうだったとして、どうして佐伯までホームレスをやっている? この子が何らかの理由で家がないのだとしても、あいつが家を出る必要がどこにある」
 曰く、あの馬鹿者の業なのだそうだ。
 馬鹿者の婚約者加藤さんという人物にわが妻は突撃をしたらしく、子細、それこそ根掘り葉掘りと聞き込んだという。そうすると出てくることはなにぶん下劣な話題だったらしい。
 そもそも、この写真に写っている女性は二十代前半、佐伯はアラサー。出会いも分からなければ、どの様な流れで婚約者となったのかも分からない。
 しかし、話を聞いて納得した。
 あの馬鹿者は、この女性との婚姻関係を手に入れるために、当時、加藤さんの養母と密約を交わした。それは、加藤養母と書類上の婚姻関係になることであった。
 加藤養母は、佐伯からマンションの共有権と、佐伯から支払われる月極のみかじめ料(佐伯は報酬を出してマンションを貸している)で自身の抱える借金を返済するための生活基盤を手にする代わりに、佐伯の馬鹿が提示した「数年後の離婚と養女との再婚」という条件を飲んだというのだ。
 ところが、これは金にまつわる話である。
 加藤養母は扶養義務のある養女と縁を切り、借金返済のために馬鹿者のマンションを売り払い、金を握った末、離婚届を提示してトンズラ。根こそぎ奪われた佐伯のもとに残ったのは、母によって佐伯に売られたことを知り、恨み殺さんばかりに怒り狂った加藤さんと、段ボールハウスのみである。
 有り体に言って、罰当たりにバチが当たった、というところだった。
 更に言えば佐伯サイドからの視点として、挙句の果てがあった。
 女子大生加藤さんの逞しさたるや、人生をめちゃくちゃにされた男を捕まえて、めい一杯に利用し搾取して行くつもりなのだそうだ。力で及ばないはずの佐伯をどのように操っているのか甚だ疑問ではあるが、その疑問もすぐに解決した。
「あなたの考えていることは分かるは。これを見て」
 そういって妻が提示してきた最後の一枚は、段ボールハウスの周辺であった。
 枯草が砂埃と共に舞う、なんというか世紀末映画の冒頭のような光景の後景には、関東治安維持部隊などという名を掲げた旗が立っていて、その下には嶽生服(学生服の誤植ではない)を着こなした、なんというか、人間サファリの中でいうハイエナのような人類が立ち並んでいた。どうやら彼らのいう治安維持は、法治国家による維持ではなく力による序列に前へ倣えという方法のようである。
「で、この写真は?」
「分からないかしら。加藤さん理由は教えてくれなかったけれど、この世紀末君たちに守られているそうよ。家を用意するとまで言われたらしいけど断った結果、世紀末君たちの集会所を間借りさせてもらっているらしいわ」
「佐伯、監視されてるのか?」
「そううことね。働かなければ死、加藤さんを悲しませれば死、逃げれば死。トイレに行くことも死。彼の狙った女の子にはそんなやばいのがついていたみたいね」
 何故、トイレがダメなのかを聞いてみたが「加藤さんの5㎞県内で粗末なものを空気に触れさせる行為が悪なのだそうよ」と言って妻は目を据えて笑った。 
 普通に考えて佐伯のやっていること自体が、もうすでにすべて犯罪クラスなのに、やつが普通に見えてきた。
 というか、自分の知らない世界がそこにあった。
「あなた、それでね。驚かないで聞いてほしいのだけれど」
 急に改まる妻は、なんだかばつの悪い顔をして俯いた。どうした? と聞いてもしばらく反応はなく、気が重たそうに玄関の方へと歩いていくのであった。
「わたし、加藤ちゃんズを養子に迎えようと思うの」
 ちゃんズ、って言ったけれど、ここに登場する人物は、私・妻・佐伯・加藤ちゃんの四人であって、ズを迎え入れると佐伯が私の子供になるという恐ろしい結果になるのだが。何故だろうか、突然妻がとち狂いだした。
「加藤女史を養子に迎えようというのはその境遇からわからんでもないが、どうして俺が佐伯まで――」
「違うわ、佐伯、ちがう」
 佐伯でなければ誰なのだ! と言い募るより先に自宅前から爆音が鳴り響く。
 驚きに慌てて庭前の窓のカーテンを開けてたまげた。
  おうちの周辺どころか、日本が右か左に傾いてしまいそうなお車が拡声器を我が家を向けて睨んでいた。
 今日が休日ならすでにうちは村十分にあっていたと思える。村八分だって葬式くらいには呼ばれるのに村十分ってもはや居場所がない。あー、無職なのに引っ越しとか金掛かるわぁ、などと現実逃避に思慮深くなっていると妻が玄関を開けた。
「妻よ! その扉は開いてはいけない扉だ! その先に二人の愛は深まらない!」
「もう、何を言っているのよ。その、そういう扉の話は薬局でファミリープランを買ってきてからに、して……(っぽ)」
 ……っぽ、じゃねぇよ。深める方向で話しているのではないのだが、上手く妻に伝わらないまま、新たな世界の扉は開かれてしまった。
「こんにちは、課長パパさん。わたしは加藤夕、これからあなたの娘になる女よ。そして後ろの者どもは私の義兄弟。桃の園で死が別つ日までを誓った義弟たち二十名。我等本日より義父母のため力を尽くす家臣になるものであります。さあ父上、ご下命を」
 なにがどうだったっけ。そうそう、佐伯をぶっ○す、話だったっけ。
 そこまで広い家ではないけれども、家族四人程度なら十分に子供を遊ばせることができるお庭には、今日から家にホームステイに来た可憐な加藤夕ちゃんと世紀末(三国動乱の末)変態……間違えた、世紀末(三国動乱の末)編隊二十名が膝を折って号令を待っていた。
「さあ、あなた。時は今あめが下しる五月かな」
「なぁ妻よ、それは日本史ではなかったかな? 光秀謀反の思いではなかったかな? というか、世界観変わるからやめてくれないかな?」
 すると、後ろからしびれを切らした世紀末の代表が装飾品をじゃらっと鳴らして立ち上がり声を荒げた。
「馬鹿野郎この野郎! てめぇを勝たせるために夕姫は立ち上がったんだ! 姫のためなら我等雑賀一行も――」
 統一感ないなぁ。
 しかし、まぁどうするつもりなのかはさておき、反撃の狼煙は上がっているらしい。
「とりあえず、城でも立てるか」


次回予告!
 曹操軍の参謀、佐伯を破るため課長軍は一軒家愛宕山の二階を降りる。
「時は今」と軍配を振る妻、桃園の日に涙を流す雑賀一行。
 夕姫は佐伯の前で中指を立てる!
「――ただ社会的に死ね」
次回! 『主役になれないなら神になれ』
 課長とは、黒子のバスケット。

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