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最適化(される)社会から自律社会へ

サイニック理論では、2005年から2024年(つまり、今年まで)の期間を『最適化社会』と呼んでいます。
この定義はちょっと難しいんですよね。
「問題が山積みなのに、最適化って言えるの?」という指摘を受けます。

その点について、個人的には『最適化した社会』ではなく『最適化される社会』という受動態ではないか? と思っています。
つまり、自分が望んだ状態に最適化『する』というよりも、他者によって最適化『されてしまう』というニュアンスです。

YouTubeのオススメに代表されるフィルターバブルなどが、顕著な例。
フィルターバブルというのは、情報がアルゴリズムでしぼられることによって、考え方や価値観が『バブル』の中につつまれてしまう現象です。
好きなものを見せてくれる昨今のサービスは、どうしてもその状態につながります。

ちなみに、最近のわたしのYouTubeページには、『日本びいき』の動画がたくさん出てきます 😊


とか

とか 😊


以前は、この手の動画は『自画自賛』の沼に落ちてしまう感じがして、敬遠していましたが、いや、なんか、もう、みなさん見せ方がホントに達者で・・・ ❣️
最近は、素直に喜んでいます。

結果、その種の動画が流れてくる確率が上がるわけですが、大切なのは「その偏りを自分がどれくらい自覚かしているか?」
最適化社会の次に来るのは『自律社会』であり、その『自律』は指向と選択の自覚によって生まれます。
一旦は、否応なく最適化されつつも、その状態を俯瞰することが求められるわけです。

そのことわりは、わたしがもっとも愛する書籍の1冊『モダンの五つの顔』の一節を思い出させます。
曰く

キッチュは、公衆全体のもっとも表層的な美的探求、気まぐれを即座に満足させるべく意図されている。基本的に、キッチュの世界は、美的な見せかけ、自己欺瞞の世界である。【 しかし 】すでに示唆したように、キッチュの危険を誇張すべきではない。知られるかぎりのすべての芸術形態の「複製」を供給することで、キッチュは、本物への道を開いている(ときに、われわれが信じたがる以上に正確に)。
つまるところ、今日の世界では、だれもがキッチュから安全でないのだから、それは、十全に真正な美的経験という、つねに捉えがたい目標への必要な道筋と思われる。

マテイ・カリネスク著『モダンの五つの顔』


『キッチュ』というのは、本物とは異なる素材でつくられた、安易な模造品をさす美学用語です。
金属やプラスチックでつくられたギリシャ建築風の柱などが、代表例。
当初キッチュは侮蔑的な意味合いで使われていましたが、今では「気楽なかわいらしさ」くらいの感じになっていますし、わたしたちの生活はキッチュな物で満たされています。

その状態を過度に嘆くのではなく、当たり前になった環境として捉えた先に「本物に続く道も見つけられるだろう」と、カリネスク氏は希望をこめて説いているわけです。
その章は、次の一説で締めくくられます。

欺くものは欺かれ、みずからの愚かさを悟った愚か者は、賢明になるのだ。

マテイ・カリネスク著『モダンの五つの顔』


『無知の知』の自覚こそが、最適化社会から自律社会へのパラダイムシフトへの鍵と言えるでしょう 😊


そろっていることは美しく、違っていることはおもしろい

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