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コウモリの肩を持つ

このところ、『両犠牲』について思いをはせることが多くなっています。
両犠牲というには「一つの事柄が相反する二つの意味や性質を持っていること」ですが、かつてはけっこう嫌われてたんですよね。
象徴的なのは、イソップ童話の『卑怯なコウモリ』だと思います。

鳥と獣がケンカをした際、両方の資質を持つコウモリは勝ちそうな方にコロコロと立場を変えたため、両者が仲直りをした時に嫌われてしまいます。


ただし、『両方の資質を持つこと』『両方の立場になれる柔軟性』自体は、悪いことではないんですよね。
鳥と獣が争った際に、仲介役を買って出ていれば、両者から感謝されたはずです。
つまり、両義性自体は悪いことではなく、むしろ、たぐい稀な資質とも言えます。

にも関わらず、かつては『白黒ハッキリさせること』を良しとし(過ぎ)ていたので、両義性自体が嫌われたのだと思います。
『優柔不断』は、意思の弱さとされるのが一般的でした。

しかし、ものごとの良し悪しを決めているのは人間であり、二項対立という思考回路自体が恣意的なアプローチです。
ちなみに、Wikipediaの『二項対立』の解説は、こんな感じ ▼▼▼



  1. 言葉の意味は対立する言葉と比較してはじめてわかる。
    例えば、「陸と海」の例で言うなら、「陸」は「海でないもの」、「海」は「陸でないもの」ととらえて初めて意味が明瞭になる。
    「陸」も「海」もそれだけで意味をなしているわけではない。

  2. 二項対立は互いに排他的だが全体のシステムを形成している。
    陸であれば海でないし、海であれば陸でない。これが排他的な関係である。しかし、陸と海を合わせると、地球の表面のすべてを網羅している。
    これが全体のシステムを形成しているということである。

  3. あいまいさが生じる。
    二項対立によると、あいまいさや重複が生じることがある。例えば、「陸と海」という二項対立の場合、「海辺」はどちらに入るのか。
    海辺は陸でも海でもあるのか、それともどちらでもないのか。
    また、「彼らと我々」の二項対立の場合、そのいずれにも入らない逸脱者はどうなるのか。

  4. 対立する概念には社会の価値観が反映している。
    例えば、「臆病者」と言う場合、それは暗黙のうちに「英雄」と対比されて、「臆病者は良くない」というネガティブな意味が付与されることがある。これは社会の価値観が反映しているからだ。
    同じことは、既婚者と対比される「独身者」、男らしさと比較される「女らしさ」、我々と比較される「彼ら」にも言える。
    つまり、二項対立は単に自然を描写したものというよりも、社会の価値観を帯びたイデオロギー的なものということである。

  5. 物語や映画などを読む時に役立つ。
    これはレヴィストロースが指摘していることだが、物語や映画などはある状態から別の状態に進行していくという特徴があり、それらの状態の関係は二項対立関係にある。
    例えば、暗から明へ、明から暗へ、あるいは制御からパニックへ、パニックから制御へ、あるいは人間と機械といったものである。



個人的には、特に3番の『「陸と海」という二項対立の場合、「海辺」はどちらに入るのか』がストライクでした。
『海辺』こそが『コウモリ』ですね。

若山牧水の短歌
『白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ』
も連想されます 😊


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