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今の日本で”インクルーシブ教育”なんて無理なんじゃないか説⑥

こんにちは。栗原白帆です。日本のインクルーシブ教育に対する考察です。⑤の続きになりますので、お時間ありましたらご一読ください。

前回診断を共有することのメリットについて少し触れましたが、今回はさらに多くのメリットについてお知らせしたいと思います。

①公正な環境が作れる

現在行われている”インクルーシブ教育”は、一部の限られた大人だけが情報を持ち、支援の必要な子を教室に入れて、何も知らない子どもたちに問答無用で「みんななかよく!みんな一緒に!」と言うだけのかなり強引なやり方です。

子どもたちは優しいので「なんか自分たちと違うけど、ガマンしてあの子が泣いたり暴れたりしないようにしないといけないんだな」と察して、そのようにふるまいます。

でもやがて我慢の限界が来ます。
「どうしてあの子は注意されないの!」
「どうして先生たちは何もしてくれないの!」
当然の感情ですが保護者から口止めされている場合、教員は言葉をにごすしかありません。

高校生になるとはっきり聞いてくる子もいます。
「あの子障害だよね。だから先生たちなんにもできないんでしょ」
これでは、悪循環です。
障害があれば何でも許されて、周りに迷惑かけてもよくて、周りは黙って我慢するしかない、という印象を与えてはならないはずです。
どんな障害もそんなふうに扱われてはいけない。

障害があるなら、支援が必要です。
でも周囲に何も知らせないまま支援を行うと、周囲の子たちの目には「特別扱い」「不公平」に映ります。
なぜなら、子どもたちは幼いころからずっと「みんなで一緒に同じことをするのが正しい」と教え込まれてきているからです。
同じことができないのはダメなこと、と学習してきているからです。

でももし本当にインクルーシブ教育を行うなら、同じことができない人もいて、そういう人たちも一緒にみんなで社会を作っていくのだ、ということを伝えなければならないと思います。

逆に言えば、インクルーシブ教育を行わなければ、それは伝えられないと思います。

本当の公平性、公正さとは「全員が同じ」ことではありません。
様々な事情を持った人たちが、事情に応じた支援を受けて同じようなことができるようになる、と言うことだと思います。

でも残念ながら「みんなおんなじ」を徹底的に教え込むいまの日本の学校では、「平等」と「公正」の区別がわかりにくくなっています。

①-1「平等」と「公正」の違い

下のイラストは「平等と」「公正」の違いををわかりやすく教えてくれます。シオノギ製薬さんのHPからお借りしました。

https://wellness.shionogi.co.jp/psychosis-neurosis/developmental-disability/school.html

同じ景色を見たいと思う3人がいますが、条件がバラバラです。
十分な身長があり何もなくても見られる子、あと少しで見られる子、身長が足りず全く見ることができない子。
これを障害の有無で考えると、左の子から右の子にかけて障害レベルが上がっていると考えられます。

現在の学校教育は真ん中のイラストのイメージです。
全員に同じ大きさの箱(支援や指導)が渡され、全員がそれを使います。

しかしイラストをみればわかるように、この「平等教育」では、より高い位置から広々と景色を見ることができる子がいる一方で、まったく景色が見られないままの子もいます。右側の子です。

この子が景色を見るためには、他の二人より高い箱が必要です。また同じ景色を見ることが目的なら、左側の子には箱は必要ありません。

それを現したのが左端のイラストになります。
与えられた箱の大きさは違いますが、結果として3人とも同じ景色を見ることができています。

これが「公正」です。

①-2 ”見えない障害”では「平等」と「公正」の区別が理解されにくい

このイラストでは条件の違い(身長差)が見てわかるものであるため、高さの違う箱を使っていたとしても、おそらく不平等感は少ないと思います。「背が低いんだからしかたないよね」という感じではないでしょうか。

しかし発達障害のように外見からその特性がわかりづらいと、周囲の子の不平等感は一気に高まります。
「なんであの子だけ!」という気持ちにつながってしまうわけです。
そんな気持ちで「みんな仲良く」なんて無理な話ではないか、と思うのは私だけでしょうか。
支援が必要なはずの子も、周囲のネガティブな感情に気が付くと支援を拒否したりします。「みんなと同じがいい」と言うのです。
でも「みんなと同じ」では、その子はいつまでも同じ景色を見ることはできません。

診断や情報を共有しないまま行われる”インクルーシブ教育”で最もストレスをためるのは子どもたちです。
そんな教育が浸透するはずはないと、私は思うのです。

①-3 ”見えない障害”を見える化する

診断や情報の共有は”見えない障害”を見える化する作業です。

子どもの特性とともに、何㎝の箱があればみんなと同じ景色を見ることができるか、をみんなに知ってもらうわけです。

前回の⑤で述べたとおり、診断名だけを伝えることは「うちの子は箱がいります」とだけ伝えるのと同じです。学校はどれくらいの箱を用意すればいいのかまったくわかりません。

「うちの子はこれくらいの高さが必要で、その箱に上るためのハシゴがあれば、さらにスムーズに箱に上ることができます」と言ってくれれば、学校は正確な高さの箱とハシゴを準備することができます。

保護者の方が言う高さが過剰であったり、ハシゴがなくても登れる、あるいはハシゴを準備することが難しければ、学校はそれを伝え条件をすり合わせていくことができます。

いまはこれを「合理的配慮」と呼んでいます。

クラスの子たちにも、その子の特性、必要な支援を伝えれば「あの子だけずるい!」とは受け取らないでしょう。

例えば長時間着席することが難しい子の場合、15分おきに立ち上がってトイレに行って帰ってくれば、さらに15分座れるというのであれば、そのように子どもたちに伝えればいいと思います。

ただし、トイレから10分以上戻ってこないというようなことがあれば、その子の指導を行います。ルールというのは、お互いが守らなければ意味がないからです。なんでも許されるわけではない。支援によってその子だけ特別な景色が見られるような事態は避けなければいけないと思います。

「公正」であるための「個々の支援」ができてこそ、初めてインクルーシブ教育が成立すると思います。

診断の共有のメリットはまだあります。
次回に続きます。




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