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今の日本で”インクルーシブ教育”なんて無理なんじゃないか説⑦
こんにちは。栗原白帆です。引き続き診断・情報の共有のメリットについてお伝えしたいと思います。
前回の続きになりますので、よろしければ前回の内容もご一読ください。
② 自分の障害理解が高まる
前回までのところで、診断名はそれほど重要ではないということをお伝えしました。
学校にとって必要なのは「うちの子はADHDです」という報告ではなく、
「うちの子はADHDです。授業中長時間座ることが難しいので、〇分おきにトイレに行かせてください。予定外のことが起きるとパニックになりやすいので変更は早めに伝えてください。言葉だけでは伝わりにくいのでメモを渡してください」というような具体的な支援・対応の情報です。
具体的であればあるほど、学校は支援・対応しやすくなります。
学校に具体的にお願いするためには、前提としてその子の得意・不得意を把握することが必要になります。
これを「障害理解」と呼びます。
具体的に伝えるために、子どもの日常を観察し、様々なパターンを把握し、対応策を立てる。診断名でなく、その子の個性を理解する。
何ができて、何ができないか。どうすればできるようになるか。
これらのことがわからなければ、そもそも学校に伝えることができません。
その結果「うちの子はADHDです」といった丸投げ報告に終始してしまうのではないかと考えています。
学校と情報を共有するためには、まずその子の特性をしっかり理解する必要があります。
最初は保護者の方が障害理解をすると思いますが、いずれは本人が自分について理解・把握していくことになると思います。
私はそれこそが障害のある子にとってもっとも大事なスキルだと思うのです。
②-1 障害理解は一生ものです
自分は何が得意で、何が苦手なのか。自分が快適な環境をつくるためにどうすればいいのか、これを知り、人に伝えられれば、「公正な環境」を作りやすくなります。
子どもたちにとって学校を卒業した後の人生の方が長い。
その長い人生の中で、自分の得意・不得意を理解し、人に伝え、理解・支援を求めることは、生涯にわたって必要な作業です。
「平等」な世界でみんなと同じ景色を見られない子たちにとって、学校はその練習をする良い機会です。なぜなら学校には「合理的配慮を行う義務」が課されているからです。教員にとって保護者や本人と相談し、環境を整えることも仕事の一環なのです。
ここで大事なことは「合理的配慮」が保護者や本人の希望をすべてかなえることではない、ということです。
ここまでならできる、これならできる、というお互いと周囲が納得できる支援を目指して話し合い、実行すること。これが合理的配慮です。
学校を出ると合理的配慮という言葉はなかなか通用しません。でも「平等」な社会で生きていくなら、少しでも「公正」に近づく努力をした方がいい。
学校にいる間にそれができるようになっておけば、その後も様々な場面で支援や理解を受けるためのスキルを発揮できると思うのです。
自分の得意・不得意を理解し、言語化してほしいと思います。
「発達障害だから」と相手に丸投げしていては、何も変わりません。
「○○だから、△△してほしい」と言えるようになれば、相手も「△△は無理だけど◎◎ならできるよ」と応じてくれるはずです。
応じてくれなければ、そもそもそこでは公正な環境の入手は難しいという判断ができます。応じてくれる場所を探せばいいのです。
②-2 障害理解は進化する
当然ながら、障害理解の内容は成長とともに進化します。
小学校より中学校、中学校より高校、高校より大学、社会人と成長し経験値が上がるほど、できることの方が増えるはずだからです。
小学校までは保護者が自分の子どもの障害理解をすることになると思いますが、中学校以降は自分でできるように練習することになるでしょう。
私はできるだけ早くから自分の障害理解を進めてほしいと思っています。
なぜ周囲と違うのか、うまくやれないのかわからないまま挫折を繰り返し、自己肯定感が持てないまま高校に来る生徒を何人も見ているからです。
教員として彼らの日頃の学校生活を見ていると、おそらく発達に特性があるな、ということを感じます。でも今までそのことに対する支援を受けてこなかったために、なぜできないのか、どうすればできるようになるのかわからない、という事例をいくつも知っています。
誤解しないでいただきたいのですが、私は決して病院に行って診断を受けるべきだとは思っていません。何度も繰り返しますが、診断名はそれほど重要ではないのです。
でも診断名があった方が学校としては動きやすい、というのも事実です。大義名分のようなものです。
私は本当はどの子も自分の得意・不得意を理解し、言語化できた方がいいと思っています。
障害理解の重要性について書いていますが、自分理解という点においては障害の有無は関係ないと思っています。完ぺきな人間なんてどこにもいないのですから。
自分は何ができて、何が苦手なのか。どうすればできるようになるのか。誰にどんな支援を求めればいいのか。できなくても構わないということも含めて、自分自身で判断できるようになれば、それが自立と呼ばれるものなのではないでしょうか。
最後に私が「最高に障害(自分)理解できている!」と感じた借金玉さん(ADHD診断あり)の著書を紹介したいと思います。
詳しくはまた読書感想でお伝えしたいと思いますが、障害理解を極めるとこんな本が書けるんだ、と感動した一冊です。
次回は障害受容について触れたいと思います。
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