見出し画像

私の話をさせてください

今回は、私の話ばかりします。
最近のはなしと、昔のはなしと、ちょっと昔のはなし。
どれもあまり気持ちのいい話ではないから、読みたい分だけ読んでください。

そして、その先で、私のことを嫌いになっても構いません。
でもどうか、私のことを知ってください。わがままだけど。



>最近のはなし


2024年1月から大学の精神科に通っている。5ヶ月経った。びっくり。
主訴は気分の落ち込みと、睡眠の乱れだった。
特に病名を告げられてはおらず、軽めの抗うつ剤と睡眠薬を処方されて、時々飲み忘れながら(笑)、治療を続けている。


そのような状態になるに至った主な原因はふたつある。


原因①

ひとつ目。2023年11月に大切な人を亡くした。
認知症を患った祖母のことである。

小さい頃は、毎週金曜日、祖母のもとに預けられた。
どんな無茶な遊びにも付き合ってくれ、毎度温かいココアもしくは炭酸飲料、そしてそれにお菓子を与えてくれた。それで腹を満たした私が、夕食を食べきれないでいると、母が電話越しに祖母を叱っていたのをよく覚えている。

大好きだった。わたしが怠惰でいられる、唯一の相手だったと思う。

しかし私が年齢を重ねるにつれて疎遠になった。
認知症を患ったことを聞いてからは、忘れられるのが怖くて、避けていた。誰、と聞かれることが怖くて、目を合わせられなかった。
実家のすぐ近くに住んでいた祖母の、背中を見かけて、声を殺した私のことを、私はまだ呪っている。

そうしているうちに、一昨年、両親が大阪へ引っ越すのと同時に、祖母も大阪に移った。母が祖母の面倒を見ていたから当然のことだった。
祖母はもともと大阪に住んでいた身で、故郷に帰る形だった。
かくいう私も、大学進学を機に上京した。

2023年の年末に、両親に会いに大阪に行き、そのついでに、久しぶりに会おう。忘れられていたっていいから。
そう心に決めていた矢先のことだった。

もう七ヶ月ほど経ったが、いまでも、私は後悔とやり場のない感情に駆られて泣く。声をあげて泣く。幼児みたいだと、自分でも思う。
わたしは毎週金曜日の温度を、まだはっきりと覚えていて、ずっとそれを引きずっている。
祖母が亡くなってからの数週間は、演劇の本番を控えており忙しく、また私自身が「祖母」を象徴するような役柄を担当していたため、悲嘆に暮れる暇がなく、十分に悲しむ時間と機会を失ってしまった。ずっと、水位の低いところで、悲しみに浸っている。祖母にかけたかった言葉と、聞きたかったことをずっと心の底に植え付けている。
いま、ようやくこうして文章にすることが叶ったけれど、まだうまく語れていない気がする。悔しい。まだ整理がつかないらしい。

棺に入った祖母の顔も、もう声も、ほとんど覚えていない。
私は最低な人間だ。



原因②

ふたつ目。近しい人間(劇団員)からの恋愛感情をうまく嚥下することができなかった。

昔から恋愛というものが苦手だ。
苦手というか、性に合わないと思う。
人間のことは好きになることはあるし、愛もわかる。
けれど、人が恋愛感情と呼ぶものへの圧倒的な嫌悪感がある。自分がそれを人に向けることはもちろんのこと、人から向けられることも苦手だ。どうしていいかわからなくなる。

わたしは、そういう異端な人間なのだと、知った。悲しかった。
普通ではない。
今まで、周りが優しくて、そんな私の異端を理解して接してくれていたから気がつかなかったことで、いつかは気づかなければならなかったことだったのだ。

おまけに、そのとき、恋愛感情だけではなく、もっと深い欲まで向けられていることがはっきりとわかった。
それが、どうも、ほんとうに、私にとってはダメだった。

そして、その人間が劇団のことを考えているとは全く思えないタイミングでのことだった。
私は、何よりも演劇がやりたくて生きているのに。
それを邪魔されるようなことが、嫌でたまらなかった。

これに関しては、私の受け取り方と、本質的な性質とが悪いことは重々承知している。相手が私でなかったら、こんなことにはならなかっただろう。
だから余計、自分が嫌になる。
私は最低な人間だ。うまく感情のやり取りができないのだ。






そんなこんなで、調子を崩し、生活もままならなくなり、すがるような思いで精神科に行きついた。
幸い、いまなんとか生きているし、たまに生活が追いつかないときもあるけれど、なんとか大学に通えている。
(5月に、いろいろあって、劇団をやめるに至ってしまったのはまた別の話。その事件はいまも私を傷つけているが、ゆっくり向き合っている途中なので、語らないでおく)


しかし、と思う。
「回復した」と思えるのはどんな状態のことを指すのだろうか。
そんなことを疑問に思う。

だって、
これらのこころの不調は、今に始まった話ではないのだから。


>昔のはなし


思いかえせば、物心ついた頃から、残念ながら、「死にたい」は私の人生につきものだった。
自分が嫌いだから、自分はどうでもいいし、
そもそも、自分に価値などないから、生きていくだけ無駄だと思っている。
残念ながら、私のなかでそれは変わることのない事実。
そう思って生きることは悲しいし、寂しいけれど、私が私のことを本質的に好きになれることはないし、価値があると認めることなんてないと思う。

もちろん絶対に自分から死ぬことはない。今のところは。


最初に「死にたい」を育んでいったのは、自分の性別について悩んだときだった。

わたしは上に3人の兄がいる。末っ子にして長女である。
これを明かすとよく言われることがある。

「ああ、じゃあ可愛がられたでしょう?」

実はそんなことはない。
なぜなら、私はむしろ男性的でありたがったから。私のことを、かわいい、なんて、兄たちは到底思えなかったとおもう。

母が買う「女であること」を強制させてくるような服は嫌いだったし、ほとんど女子のいないサッカーを習い事で始めた。
気がつけば一人称は俺だった。ちなみにこれは高三までずっとそうだった。

小学五年生のときに、とある活動者のカミングアウトをきっかけに、性同一障害の存在を知った。
ああ、これだ、と思った。
それと同時に、生まれ落ちてしまった自分を悔やんだ。
そして死にたい、と思った。
お母さんごめんなさい。わたし多分間違って育っちゃった。

鏡を見て、こいつは誰だと思った。鏡を殴って家族にバレないように泣きじゃくった。
自分のなかにいる自分が許せなかった。
自分の外見も許せなかった。
私は本当の自分がどれで、どんな自分ならゆるせるのか。それがわからない。それはいまでもそうだ。なので、今は性別を特に決めることに固執していない。それが楽だから。

すべての人に毎日嘘をついている感覚がまとわりついて、自分はほんとうに生きるべきではないと思った。
嘘つきでごめんなさい、ああ、また嘘ついちゃった。いや、存在が嘘だし。ごめんね、ほんと。自分にも謝りたい。こんな外側で、こんな内面で、ほんとごめんね。

高校生になりたての頃、こんな文章を綴っている。



等身大の言葉だな、と思う。
ずっと苦しかったんだなあ。私は。

あるとき、尊敬する先生に、「一人称が俺って、普通じゃないんですよ」と、大勢の前で言われたことがある。はっきりと私に向けたものではなかったが、一人称が俺の人間なんて、その場に私しかいなかったから、ひどくショックを受けた。その日は、本気で死んでやろうと思った。


実はこの話を、当時、一人だけに言えたんです。
それがとーやま(元)校長。
どうしても、嘘をつきたくなくて。最後の「拝啓、とーやま校長へ」で手紙に書きました。そのときの返信のハガキを、いまでも持ち歩いています。宝物。あのハガキでくれた言葉が、いまでも私を生かしています。
この場を借りて。ありがとうございました。いや、ありがとうございます。


いまは、自分の性別について、流動的であっていいと思っているし、実際、あえてどうこうカテゴライズすることに疲れてしまった。男性的/女性的の二元論に落とし込むのも野暮だから、まあ、私は私で、俺で、いいよね、と思うことにしている。
男性になりたいというのもどこかちょっと違うし、けれど女性でいたいと思っていない自分は決定的に存在するし。
こういう自分であるおかげで、わたしは、男女を問わず近い距離で接することができるラブ&ピースな人間でいられるので、悪いことばかりではない。

結論から言うと、いまは昔ほど悩んでません。笑
でも、やっぱり恋愛感情を向けられてしまうと、いろいろぶり返してしまって、すごく死にたくなる。私はやはり異端なのだと再確認するから。
そしてたまに、こんなふうに生まれてきてしまってごめんなさい、と泣くことはあるけれど。私のままでもいいかな、と思える瞬間が増えた。ちょっぴり進歩したかな。

恋愛に関しても、いろいろなカテゴリーがあることを知って、ふむふむ恋愛がどうもできない自分も異端じゃないんだ、と思えたりとか、こういう生き方ってありなのか、と思えたりとか。前向きになりつつあります。
恋愛感情や、自分に関する性愛に恐怖を抱く自分も、まあ、いちいちカテゴライズしたら色々いいことあるのかもしれないけど、私は私でいいや、と今は思えています。
演劇に恋し、文芸創作を愛しているからね。それでいいのだと思う。


>ちょっと昔のはなし


そして、睡眠についても、実は今に始まったことではない。

2021年3月、新型コロナウイルスに罹患した。

そのとき、私の感染をきっかけに、部活の先輩方にとって大事な公演がひとつ潰れた。ほんとうにショックだった。
あとに聞いた話では、どうやら、父親が、すすきのからもらってきたウイルスが原因だったらしい。悔しくてたまらなかった。

私は現実から逃げるために、療養の仮面をかぶって、何時間も何時間も寝た。ホテル療養で、ご飯や生活必需品をもらいにいく時間が決められていたのだが、その時間以外はほとんど寝ていた。

それがそのあとの生活にも尾を引いた。
受験生になるまで、というか今に至るまで、ずっと続いている。
それまで、全力で頑張る、それだけが取り柄だった私なのに、怠けることを覚えてしまった。生きる体力が減った。すごく苦しかった。
集中力もどんどんなくなっていって、およそ受験生とは思えない生活をした。それを見透かしていたのだろうか、合格が判明した翌日、お世話になった先生に、「あなたは大学受からなかった方が良かったね」とまで言われた。それはそれで正しい。

今も過眠・不眠の波はひどいし、集中力もなく、前のような人間に戻れないのか、と落胆する。
頑張ることがすべてだったあの日が恋しい。
努力だけを背負って生きていたはずの私はどこへいったのだろう。
ずっとそんなことを考えている。
不真面目に堕ちていく自分がどうしても憎いのだ。




そんなこんなで、昔から、あまり精神的に健康ではない。
それに加えて高校生のころから健全な生活を送ることに強くない。頑張れない自分が生まれてきた。

ありえないほど家庭に恵まれ、友達や周りにも恵まれているのに、どうしてこんなに生きづらいのか。
生きづらさを自分のなかで生産してしまうような自分が、やはり嫌いだ。
私を殺してしまうのは、結局、私なのだ。つくづくそう思う。



>おわりに


いろいろ、自分のことについて書いてみた。
どれも気持ちの良い話ではない。申し訳ない。根っこがあまりにも暗い人間なので、自分のことを書こうとするとあまりハッピーではいられない。


書きながら思ったことは、
わたしには、いまの自分を認める力が必要なのかもしれないということ。


自分のことを好きになれなくてもいい。
ただ、昔に戻りたいとか、普通になりたいとか、もっと頑張れとか、小説を書けないお前はオワリだとか、そういう「いま」を否定する言葉たちはかけてあげない方がいいんじゃないか。

もちろん、活力のあって何事にも全力だったあの頃には戻りたいし、できることなら普通に生きていたかったし、いつまでも寝てないで変わろうとしなさいよとは思うし、祖母が生きていた頃に、祖母を題材に書いた小説が高く評価されたことを申し訳なく思って小説が書けなくなってしまったのが悔しい。全部それは本音だ。

でも、いまの私はいまの姿でもがいて生きているし、ちゃんと苦しんで、ちゃんと悩んで、1日を生きている。その私の存在を、認めてあげるべきなのだと思った。

「回復」って何?
って言いましたけど、それすら「昔に戻りたい」を包含しているので、正しくないのかもしれない。

いまのままでいいよって言ってあげられるようになること。
ダメなところも、そういうところもあっていいよねって認めること。
それがひとつの目標。

もちろん、それは私にとってはすごーく難しいことで、口で言うのは簡単なのに、実際は前途多難です。
昔のようになりたいとか思っちゃうし、もっとちゃんとした生活を送りたいなって願っちゃうし、生きててごめんなさいって謝っちゃうけど。


ちょっとたくさん寝ちゃったり、夜更かししちゃったり、あんまり集中力がなくてじっくり物事に向き合えなくて、女に生まれたクセにそれから逸脱しようとしちゃったり、恋愛や性愛が怖かったりして普通じゃないし、生きている価値ないって思っちゃう。そんな自分だけど、いいんです。そんな自分だから、たぶん、生きてるんです。


のらりくらりと生きていきます。


こんな話を、最後まで読んでくださって、どうもありがとうございます。
こんな私でもよければ、まだ、付き合ってくださいますか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?