父と宮沢賢治

私は本を読むのが好きだ。子供の頃は、シリーズ物の本にはまり、新刊がでては学校から帰ると読み終わるまで眠らずに母によく怒られたものだ。毎日ひたすら母に怒られずに本を読むにはどうしたら良いかを考えていた。
布団の中に懐中電灯を持ち込み、布団の中で隠れて本を読む。母が様子を見にきたときは布団から顔を出し、狸寝入りをしていた。おかげで私の視力は、裸眼では到底生活ができないほどに低下してしまったが、私はまったく後悔をしていない。

なぜ本がこれほど好きか、考えられる理由はたくさんあるが、私の本好きの一番の理由は、幼い頃父が宮沢賢治を読み聞かせてくれていたことであると私は考えている。

私は6歳のころ(だったかと思う)、当時同じ二段ベットで寝ていた兄の希望で宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』を父が読み聞かせてくれることになった。兄のための読み聞かせであったが、私は必然的に父によるグスコーブドリを聞くことになった。幼かった私は内容の展開や意味は全然理解することはできなかったが、宮沢賢治が紡ぐ言葉による情景描写の鮮やかさに引き込まれ、夢中になって聞いていた。当時の私は、父のことがあまり好きではなかったが、毎晩父の読み聞かせがたのしみになっていた。

一つ言っておくと父は決してすばらしい朗読をするわけではない。淡々と読むだけである。だからこそストレートに作品自体の言葉運びや情景の美しさを感じることができたのではないかと今となっては思うが、兄が寝てしまって部屋をでようとする父を引き止めて続きを読んでもらったことが多々あった。

『グスコーブドリの伝記』が終わり、ほかの作品も読んでもらうことになった。『やまなし』『オツベルと象』『風の又三郎』など有名どころからマイナーな短編小説まで、時には詩に至るまで。正直なところ、内容は全然覚えていなかったが、さまざまな表現者の朗読音源を聞いても、私の中には父が読んでくれた宮沢賢治が鮮明に残っているのである。10年以上たった今でも『風の又三郎』での風の音は父によるなぞのイントネーションとテンポで脳内再生をされる。

本を読むことは作品にある世界観を感じ、楽しむものであると私は思っている。それは小説であっても、評論であっても、どのようなジャンルのものを読むにしても同じこと。このスタイルは、間違えなく父が読んでくれた宮沢賢治による影響であろう。本を読むことは私に素晴らしい世界を体験させてくれる。私は本が大好きだ。それはきっとこれからも変わることはない。

幼い頃の父との思い出は少ない。しかし、数日間、父が宮沢賢治を読んでくれたことが私にとってとても強烈な思い出として残っている。今でも私は宮沢賢治を何度も読み返す。

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