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とりとめのない社会人1年目日記
このあいだ、憧れの人に自分の似顔絵を描いてもらった。そのことがうれしく、その似顔絵の自分が凛と穏やかに笑っていたのがさらにうれしく、この気持ちを書いておきたいと思った。社会人と呼ばれるようになって、1年が経つ。
年明けを機に短い日記をつけ始めて、自分でも信じられないけど、3か月続いている。誰にも見せない、自分のためだけの日記。そこでも良かったのだけど、誰かに見られるかもしれないと思いながら書く文章は、意図せず自意識が垣間見えてあとで読み返したときに新しい気持ちで自分に向き合えるかもしれない、そう思って、久しぶりにnoteを開いた。
とあるライターさんに「エッセイなどの文章を公開する怖さに葛藤しませんか。あとで読み返すと恥ずかしいとか…」と聞いたことがある。そうしたら、「読み返すときの自分と書いていたときの自分は、別の人間なんです。同じだけど、そっくりそのまま今の自分ではない。だから、恥ずかしいと思うのはもう1人の(いつかの)自分に失礼なんです。」という答えが返ってきた。なるほどなぁ。その言葉をお守りに、今しか書けないことを書いておきたいと思います。
仕事のことが多くなりそうだけど、私の所属する場所がどうとかそういうことが書きたいわけではないので、それがちゃんとうまく伝わるように書けたらいいな。何かを伝えるためではなく、自分の記録のために。ありのままを書きたいと思います。
(前置きが長くなりましたが、)最近考えていることから書こうと思います。最近は、プライベートと仕事の境目が曖昧になってきて、それがとても心地よく、仕事を仕事と思わなくなってきました。もちろん「仕事」だけど、私のやりたいことでもある、だから続けられる。嘘なく働けていることがとてもありがたくて、やっと、自然体で仕事ができるようになりました。
でもちょっと前までは、生活や仕事のリズムがぎこちなくて(ぎこちないというか、もはや崩れていて)、サラリーマンとして働くことに適応できない自分がとても悔しかったしショックでした。何がしたいのかよく分からず、そんな自分を信頼できないことがずっと続いていて、辛かった。このままじゃきっと長くは続かない、そう思いながら働くのはとてもしんどかったです。
そんなときにいつも思い出すのは、社長の言葉でした。最終面接のとき、社長に仕事についての考えを聞いたら、こんな話をしてくれました。
「社長業の仕事すべてを100としたら、98の仕事はできればやりたくないと思ってる。でも、たまに98やってよかったと思える2がやってくるから、やめられないんだよね。」
この言葉があったから、私は98から逃げず2を待つことができたのでした。というとかっこいいですが、実際は、仕事をやめる決断まではできなかった自分の弱さを、この言葉が支えてくれていました。
なんで働くのか、結局のところ答えは見つからないし、永遠に続く答え探しの途中で「これかもしれない」を拾い集めるしかない。今はそう思っています。そんな悲観的な自分に負けそうなとき、「これかもしれない」をくれるのはいつだって自分以外の誰かで、この1年もたくさんの方に支えてもらってばかりでした。
そんな私でも、今の自分を好きでいられるのは自分を許すことができるようにもなったからでした。よく分からない自分を許す。許すとは、そのままの自分でいいと思うことです。
話は冒頭に戻りますが、似顔絵がうれしかったのも、似顔絵の自分が凛々しく微笑んでいることに、安心したのでした。社会人になって、人生を純粋に楽しむことができず上手に笑うことができていなかった時期もありましたが、何かを乗り越えたのかもしれない、そう感じられる顔。夏、帰省を終えて、大阪へ戻るバスのなか6時間ずっと泣きじゃくっていた私が、ちゃんと大人の顔をしているのがうれしかった。
これからも、思っていたより上手くいかないこと、必要以上に周りがキラキラして見えること、自分を、自分の人生を大切に思えないこと、たくさんあると思います。特に私は、調子の良いときと良くないときの波が大きい(と思う)。その波が少しでも穏やかになるよう、もっと人にも頼りたいです。
私はたぶん、なくても困らないけど、あったら豊かになるものを創ったり味わったり、そういう、不確かで輪郭が分かりづらいものが好きなんだと思います。それはないと困るものを誰かが整えてくれているからできることで、とても贅沢な話ですが。今は、そんな自分の興味あることに近い仕事をさせてもらえて、本当にありがたいです。
最近読んだ本に、心にとまった文章があったので、少し長いけど書き写しておこうと思います。
仕事場で過ごす時間に対価が支払われるなんてーーつまり、彼女の人生における限られた時間を区切って、それを金銭という人間の発明品と交換するなんて、奇妙な気がしないかと訊いてみる。
その時間は取り戻せないんだよ、マリアンは言い添える。何が言いたいかっていうと、時間はリアルだってこと。
それを言うならば、お金もリアルだよ。
うん、でも時間の方はもっとだよ。時間は自然科学の要素だけど、金銭の方は社会的構成概念に過ぎない。
そう、でも私は仕事をしているときも生きている、ジョアンナは言う。勤務時間の私も私であり、その中で経験を重ねている。あなたの方は仕事をしていない、だけど、マリアンの時間もやはり過ぎ去っていく。その時間もやっぱり取り戻せないんだよ。
でもそれを使って何をするかは自分で決められる。
仕事をしているときも生きている。本当にそうだと思いました。仕事の時間を、人生のうちの手段にしたくない。「仕事」と呼ばれる時間も、人生の一部で、大切な時間だということを、忘れたくないです。
自分から出てくる文章がぎこちなくて、何も発信したくない時期もあるなか、こんなにもつらつら書けること、あらためてうれしく思います。
とりとめのない日記の続き、4月からはじまる社会人2年目。私のペースで大切に過ごしたいです。
追伸
先日、両親をご飯に誘うことができました。親孝行と呼べるかは分からないですが、元気でいること以上の親孝行を、そして、感謝を形にすること。これからも、そのことを喜べる自分でいたいです。
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