推し活で迷い子になる話
いきなり 何を言い出すのかという話ではあるが
ずっと応援している推しさんが 何らかの炎上事故に遭ったら どういう気持ちでいればよいのか 予行演習ばりに考えてみた。
どこかの有名事務所所属のアイドルグループだけでなく そこまで有名どころではなくても 名が知れてくるにしたがって さまざまなリスクがふり掛かってくる。
推し活というものが まだよく分からないと常々 感じている筆者は ときおり ブログやnote記事を読み漁り、「推し活って何?」「推し活の王道って
ある?」「自分なりの推し活とは?」という答えを さがし求めている。
ひと様の意見に従おうというわけではない。
それをするには 何がしかの意見を持ちすぎている。
が その自分の実情を分かっていても リアル生活とは全く別の空間が広がっているように感じる「推し活」の世界。
一種のあこがれや疑似恋愛を含み、一部 ありたい自分の投影にもつながる。
自分自身の生活に ダイレクトに密着していないのは確かなのだが、その割には 充分以上の気持ちのブレを感じてしまう時がある。
たとえば 推しさんが結婚する案件。
出会った当初に 独身だった場合は かなり気持ちは揺れるだろうなと想像できる。
筆者で言えば 最初からそうだったから それを気にしても始まらない。
オモテ向きの話なのかもしれないが ファンの意見を拾い読みしていると、
不思議なほど 結婚指輪を付けている推しさんに安心感を持っているファンが多いように思う。
自分自身も 家庭や子供があれば お互いさまだし、そこにセーフティゾーン的な安心感があるのかもしれない。
が、自分の環境や事情は棚にあげて チリチリとした気持ちを持つことも
多少は持つ日もあるのではないかと思う。
また 自分の環境には問題ないということであれば 要らぬ想像を持ってしまうこともあるかもしれない。
安心感とチリチリ感。
このアンビバレンツな思いが より 強く推したい気持ちにつながっていくのだろうか。
では 推しさんが 途中で結婚を解消して不倫に走った場合はどうだろう?
実は 推し活というほどの行動はしていなかったが 好きな俳優がそういうことになった経験がある。
当時は とにかく純粋きわまりない年齢だったこともあって
「神様の前で誓った相手を捨てて乗り変えるなんて あり得ない!フケツ!」と憤っていたことを思い出す。
勢いで 彼が出演するドラマや映画から遠ざかり ひとりプンプン怒っていた。
信じていたのに、すてきって思ってたのに、オトナって キタナイ!
だが その考え方は 少しずつ変化していった。
不倫を認めるわけではないが ある日偶然に観たドラマで 彼が格段にいい
演技をしていたからだった。
ああ。
こういうことを「芸の肥やし」というのか。
ある種の衝撃とともにドラマに見入っていた。
いまでは 特段 糾明する気持ちなしに その俳優の演技を見ることができる。
さらに 発言や行動そのものが 問題になるケースもある。
かつては事務所が厳しく管理し 問題になる前にもみ消していたことも多かったのか、よほどでなければオモテには出てこない。
せいぜい週刊誌に追われる程度で 曖昧なまま おさまっていた。
もちろん ウワサ程度では囁かれているが 真偽が明らかとまではいかないから 過剰に叩かれることも少ない。
が、今はちがう。
本人が個人で発信することも 芸能活動の一環になり 私生活の一部を公開せざるを得ない状況も起こる。
すると 100%計算され尽くした偶像からズレてしまい、こんなことを言った、あんなことをしたと袋叩きに遭ってしまう。
見ていて気の毒に感じるほどだが 「有名税の一種だ」「人気があるのだから私生活にも気をつけよ」「人柄も 考え方も 個人的趣味も 売り物のひとつ」と言われてしまう。
プロまで行っていなくとも 人気のあるユーチューバーなども 対象になっているようで その公私の線引きの難しさは ご本人も周りも 本当に擦り切れるような思いが渦巻いているだろうと思う。
誰かを推すとき
出来る限り「理想どおりであってほしい」と願うのは 共通だろう。
だが その「理想像」には ファンひとり一人に個人差があって、仮に千人の
ファンがいれば 千通りの「理想像」が必要になる。
こちら立てれば あちら立たず。
露出度が高ければ高いほど、リアルで見かける頻度が高ければ高いほど
そのリスクは大きくなっていく。
ファン側も
それぞれの倫理観や許容範囲、期待値はバラバラで、あるファンから見れば 大喜びの推しさんの言動も 別のファンから見れば シロイ目の範囲。
中庸が いったいどこにあるのか本当に悩ましい。
推し活のあれこれを読んでいると、何でもかんでも 受け入れることがいいとも限らないらしいし、逆に 推しさんの好みが最強最大であって、ほかに選択肢はないのだという意見も見る。
どちらも なるほどと思いながら、自分が どうあれば良いかのヒントとしている。
結婚相手でも 恋人でもない。
友人でも 知り合いでさえもない。
そんな曖昧な存在に 過剰に入れ込んでしまった気持ちを整理するのは
本当に難しい。
仮に
自分が「推し」の側になったことを想定したら どう振る舞うだろうか。
筆者であれば オモテに出る頻度を極力 減らす以外思いつかない。
ショーケースにおさまったかのように
最高を差し出すのは そのパフォーマンスや演技、トークやアテレコの時だけで 勘弁してもらいたくなる。
たぶん。
だが人気を保つための取材や 営業発言、営業投稿も必要となれば どうすればよいのか?
全員に合わせることは出来ない以上、個性を押し込めて品行方正に振る舞い、興味関心は極力 隠すしかないのかもしれない。
それを見るファンは、今度は お人形を見ているような気持ちにならないだろうか。
何らかの憧れを持たれる人たちは 個性が際立つ。
際立つゆえに 輝いているのだと思う。
たとえ全体得点が高くても すべてが ならされると 面白味にかけてくる。
「キャー !」とか 「おー!」の感嘆詞は そのほとんどが 平均にならされたものとのギャップから もたらされるように思う。
別の表現で言えば それは「隙(すき)」なのかもしれない。
「推し」に こうあってほしい。
そう望むことが いかに無茶な希望なのか 考えれば考えるほど 分かりたくはないが 分からざるを得ないなという気分になっている。
長々 書いた割りには なんの結論も 方向性も見い出せていない駄文になってしまった。
すべての経験は 必要だから起こるという言葉を信じて 崇高でもなく高尚にもなれない現在の迷いを書き残しておく。
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