絶望の彼方──「選択的孤独」という救済

 最近は何かしら記事を書こうとするとだいたいこんな時間(現在午前4時台である。追記:書き終わったら9時半を過ぎていた)になっている。8時間とか寝続けられたのは、いったい何年前のことだろうか。

 3つの試験と12個のレポートを終え、ようやく学部生として最後の夏休み──4年で卒業できればの話だが──が幕を開けた。ちなみに、同期生たちのほとんどは就活なり院試なりを終えて進路が決まり、悠々自適に過ごしているが、私はそのどちらでもない。1、2回生の間に破綻しきった精神が作りだした負債のせいで、単位の回収に追われそれどころではなかったからだ。……まあ、決断が自動的に1年延長されるのだから暇なのは同じか。

 SNSで異常者ムーブをやること以外に、今の私には何が残っているのだろうか(さらにいえば自分より重度の精神病患者なんてそう珍しくないのにも関わらず)。その問いの答えは言うまでもないので、わざわざ言語化しない。

 コミュニケーションの一形態としての「相談」には、必ず相談「する側」と「される側」が存在する。私はもっぱら「する側」のほうだが、相談されるほうが多い者もいればどちらも大体半々くらいという者もいるように、これは人によって様々だろう。

 人は見返りなしには優しくなんかしてくれない。多くの人間がその前提を忘れている。……いや、無意識にリターンを返せているから気にしたことがないだけかもしれない。

 人間関係は等価交換でしか成り立たない。パートナーであれ友人であれ、何かしらの施しをされたなら、相手に対してそれに見合う対価を差し出さなければいけない。一方がメリットを享受しているだけでは、もう一方はいつか枯れてしまう。逆にこちらが相手を何らかの形で傷つけてしまうことがあったとしても、それを補えるだけのメリットを相手に提示できるなら、問題を回避できる可能性は高くなる。

 なぜ常に「相談する側」なのか。それは例えば私に(ほぼ)一生解決することがないであろう問題(性違和のこと)が内在しているために他でどう頑張っても苦痛から逃れられないし、自分で自分の機嫌を取ることができないからだろう。これに対して処方箋として機能する趣味の類を持ち合わせていないのも追い打ちをかけているけれど、あったとしてどれほどマシになっていたかは定かではない。結果として、意図せずとも人が拠り所になってしまうのだ。

 しかし人を拠り所にするにあたって、どころか相談に限らず人間関係全般において、私が提示できるメリットというものは特にない。金銭獲得能力のようなわかりやすい対価も、自分に時間を使ってくれる相手への敬意を示すような気遣いも、どちらも私が差し出せるものではない。特に後者は、人の感情の機微に疎い自閉傾向の人種にはかなり困難なことであるし、挙句自分の(したい)話しかしない。そのうえ己の言動で相手に加害した場合には大抵無自覚である。これでうまくいく人間関係を探すほうが珍しいのではないか。実際私はこれで数えるのも嫌になるほど人間関係を失ってきた。ただ、留意すべきは努力によって緩和はできるということで、身内の店の間借りとはいえバーテンの仕事をやったりして一時期よりはだいぶマシになったほうではある(らしい)。

 けれども、それによって人間関係で事故る数が減ったからといって、それでよしとはならないのだ。「ゼロにするのは不可能だ、少しでも減らすつもりで動くしかない」といったことを言う者は多い。だが、彼らがおそらくHPが100あるとして30削られて20回復して、みたいな繰り返しを想像しているのに対して、実際の私はいきなり80削られたり30しかないところに50ダメ飛んできたりして死ぬ。気にするなというほうが無理だ(自分が相手にしたことにはろくすっぽ気づかないくせにね)。どれだけ数を減らしたところで無自覚ならいつかどこかでまた似たようなことをやるし、そのたった1回で私は瀕死になりえる。ついでに言えば、警告なしのコミュニティからのパージの恐ろしさというのはアスペとして生きてきたなら痛いほどわかるものだろう。

 こういった人との関わり方は、言うならば寄生者と宿主のそれである。ジガバチというハチの名前ぐらいは聞いたことのある人間は多いと思うけれど、あの種は適当な他の昆虫(たいていは蝶や蛾の幼虫である)を毒針で麻痺させたところに卵を産み付け、孵化した幼虫がそれを食い殺すなどするわけだが、私が食い潰すものはこの場合「善意」だ。搾取も大概にしろと言いたいところだが、ただの自己紹介にしかならない。これについては時々「精神的ヤリモク」と呼んで自嘲している。

 相手の施しに対して対価を払えない、考えなしに人を傷つける、興味のない話を延々とする、やっていることは善意の搾取。しかもそれを無自覚にやるのなら、未然に防ぐという方法をとることは不可能だ(そもそも自覚的であればアスペではないだろう)。ならば、もう誰とも関わらないようにすることでしか解決はできない。最初から人と関わらなければ、当然コミュニケーションも発生しないのだから。──「人間関係リセッター」。これが私のたどり着いた結論である。人と関わる可能性を極力減らそうとしてTwitterは毎回ログインしないと使えないプライベートブラウザでの利用に切り替えた(面倒さが勝って開かないようになることに期待した)し、ツイート頻度や総数は以前より遥かに落ちた。年度が変わる前300人ほどいたLINEの友達は、今では50人もいない(ちなみに、この極端な思考に行き着くにあたって大きく影響を受けた人物がいるのだけれど、ここではその詳細は割愛する。多分記事にもしないだろう。ただしDMやLINEで聞かれたら答える)。

 誰もが自分を見捨ててくれれば、きっと楽になれる。今まで人間関係の断絶によって幾度となく絶望してきたけれど、それでも往生際は悪く、どこかで微かな光が差すことに期待していた。でも、絶望しきったらそれ以上の絶望はない勝手に期待して勝手に失望することもない自分なんかのために貴重なリソースを割かせたり誰かに加害することもない。そうやって自発的に孤独を選択することでしか、私は救われなかった。もしそれ以外での解決を望むなら、億が一ほどの偶然で新たなオム/ファム・ファタルに出会うことだろうが、正直下手に依存先を見つけた場合の方が破綻の危険を鑑みれば真に恐ろしい。

 ここまでつらつらと書いてきたけれど、諦めただけで、根底のところでは拠り所を失った先に次の関係を求めているのは明白であるということは理解できるのではないだろうか(惨めだね)。もしそうでないなら、Twitterのアカウントを削除する程度のことはしていると考えるのが妥当だし、これからもしばらくはこうやって「どっちかはっきりせえよ」と言われるような状況を続けることになるだろう。もっとも、フォロワーのうち一体何人とまともに関わっているのかと考えれば些末な問題ではあるが。リアルでは呼び出されるなどしなければほとんど家から出なくなったので多少は気が楽である。自衛の手段として孤独を選んでいるあたりがどこまでもエゴイスティックで嫌になるけれど。誰かと関わればどうせ絆されるのがわかっているから少なくとも自分からは近づかない。まあどっちみちバイトなりでビジネスライクな付き合いは発生するからそれには目を瞑って。あとは──誰もかもに見捨ててもらえるその日を、静かに待つだけだ。……ああ、透明人間になれたらよかったのにね

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