続・「選択的孤独」

あの時こうしてれば あの日に戻れれば
あの頃の僕にはもう 戻れないよ

ソラニン/ASIAN KUNG-FU GENERATION

 引用こそしたが、私は別に浅野いにおを履修しているわけではないし、映画「ソラニン」も見たことがない。強いて言うなら10年代初期までのアジカンの曲がいくらか好きな程度である。しかしながらなぜこの一節を引っ張ってきたのかといえば、この歌詞が私の現在の生活と、それなりにリンクしているからだ。

 ソラニンという曲自体はずいぶん前から好きで、カラオケでのレパートリーにも入っているし、このフレーズを口ずさんでは思いを馳せる──もっぱら自虐的な意味合いで──ことも少なくなかった。ただし今の私にとっては少し、かつてのそれとは意味合いが異なる。

 昨年の夏に、私は己が傷つかないために自ら孤独になることが正解だと判断した、という旨の投稿をした。今回の記事はそれに続くような内容だと、だいたい理解してほしい。
 私は、ごく最近までの長きにわたって、自らの過失によって人間関係を破綻させてしまったことを延々と後悔するタチであった(またその頻度も稀だとは全く言えなかった)。その自虐として「ソラニン」のフレーズを毎度毎度思い返していたわけであるが、学部卒業も間近に迫ったころになって、やっと思考に多少の変化が出始めたのである。

 あの日あの時、自分が何かを間違えて誰かと縁が切れてしまったとしよう。その時人は一体何を考えるのだろう? かつての私のように、決して戻ることのないその縁に関して後悔をし続けるのだろうか。それとも──。
 結論から言えば、もしその時間違えずに関係が続いたとしても、それより後のどこかでどうせ間違えて失われる縁に違いないので、その後悔は無駄である。なぜって? 間違えても続いてる縁だって中には存在するんだから、一つのミスで断絶するような縁はその時間違えなくても別のどこかで間違えたら当然失われるに決まっているではないか。仮にその間違いが起こらず縁が続いたところで、それはすなわち、次からはそういうことはしないことにしよう、という気付きすら生まれないということなので、同じやらかしをいつやるかが変わるだけにすぎないどちらにせよ切れる関係だというのはわかりきったことなのである一般の何倍、何十倍もこの流れを繰り返しているアスペのくせに、今まで気づかないほうがおかしい

 これに気づいてから、私の生活は格段に楽になった。同時に、それが友人にせよ恋人にせよ、「大切な関係」が存在することやそれが新たに構築されることが、途端に疎ましくなった。当たり前だ。大切になればなるほど会えない時間は自分を苛み、それは自分がやらなくてはいけないことを遂行するにあたって邪魔をするのだから
 それから、失うことそのものはいくらでも諦めがつくし平気だが、継続的に孤独であるか、愛おしい関係があるところから、つまり上げたうえで落とされるかという見方をしたときに相対的には後者のほうがダメージが大きいので、これは苦痛の最小化である

 自ら孤独を選択することによる救済を求め始めた当初と比べて、今の私が孤独であり続けようとする意図は多少変化している。当時は完全に、人間関係など最初からなければ失って傷つくことも、また傷つけることもないという理解によるものだったが、私は今、この選択的孤独を、積極的事由によるものとして受け入れることができている。
 そもそも日々のタスクをこなすのにも目が回って仕方ない私にとっては、たとえ休日でも、朝に起きて3度の食事を摂り(可能なら、昼間には課題をこなしたり本棚の積読を消化して)、夜にはシャワーを浴びて日付が回るころにベッドに入り8時間ほど眠る、などというごく普通の一日を過ごすことすら極めて貴重である(私は基本的に不眠がひどいので、生活が荒れても寝すぎることはない)。人間関係のたらればに脳のリソースに割くことが減った私は、幸福のハードルが著しく下がり、このような「ていねいなくらし」を目指すことぐらいしか頭からなくなってしまった(無印良品系のアイテムで全体が構成された部屋で生活をしている方々のことではない)。
 もうひとつ、誰かと関わるということは、その人数分だけ情報が新たに頭に流れ込んでくるということでもある。かつて私は(というか最近まで)Twitterのあらゆる検索コマンドを駆使してネトストをしまくっていたのだが、今ではとてもできない芸当である。非公開リストを作ってまで監視などしようものなら、その膨大な情報量によって、ただでさえ疲労で破壊されている脳味噌がさらに壊れることになる。大人数で騒ぐことを喜びとし、どこかしらのコミュニティに積極的に与しようとするほどの気力は、今の私にはもうない。悪い言い方をするならば、私は自分の苦痛を最低限に留め、そして合理的で質の高い生活をすることと引き換えに、他者に対して軽薄になってしまったということもできるだろう。

 誰かが私に「可能性を閉ざしきった、無味乾燥で面白味のない、そんな在り方で平気なのか」と声を荒げることもあるかもしれない。けれども少なくとも今の私にとって、この選択肢は正解ではないかもしれないが間違いではないと、声を大にして言うことができる。最も伝えたいのは──人間関係を希薄にすることを、強いられた不本意なものではなく、自分の生活を豊かにするかもしれない選択肢のうちのひとつとして知っておいてほしい、ということだ。

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