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『はりぼて』をみての個人的な日記

10月25日に富山県では県知事選挙が行われる。


約70年ぶり(!!)女性の候補者が立候補。かつ、50年ぶりに保守分裂選挙と、富山県の中では話題である。


話が急に飛ぶが、2011年に原発の事故が起こったとき、福島の人に申し訳ないって私は胸を痛めた。
だって、原発を推進し、日本に広めたのは富山の議員だった正力松太郎だって、なんとなく知ってたから。


郵政民営化の時に自民党を離れたが綿貫さんは自民党の重鎮だったし、富山では知らない人がいないでしょう。トナミ運輸の敏腕経営者でもあった。勲章ももらってるちょーゆーめーじんで。キングオブ自民党みたいな人。私だってつい親しみ込めて綿貫さんってさん付けしちゃうもん。

とか、そういうのを書き出したらキリがないぐらい。本当に、富山県はめーっちゃ自民党が強い。自民党、自民党、自民党、自民党!バンザーーーイ!の超保守県なのである。

だけれど、いつからだろう?


日本全体もそうだよね。世界中は右傾化していると思うし、
アメリカに本当にそのまま右ならえ!だよ。日本も右傾化が進んでいると思うし、

自民党はここ数年ずっと圧勝だし、日本自体もしっかりとした保守国だ。


富山県だけじゃない、これは、日本の縮図なのだ。自民党万歳国。


これは、ニヒリストとかじゃなくて、あまりにも保守が権力を持ちすぎてて…

私は、なんとなく政治に対して諦めてた。


っていうか、元々、政治家が世の中を変えることなんて難しいと思っていて、民間の人たちが世の中を変えて行っていくのだよって私は勝手に思っていた。

民間っていうとざっくりしすぎだから、
具体的に書くと


社会起業家や、哲学者、文学者、ジャーナリスト、芸術家たちが社会を変えると思っている。


全部は、書ききれないので
芸術家、とジャーナリストについてだけ言及したい。まずは、一流の音楽家であり芸術家である小沢健二だ。
私は小沢健二の曲を、思春期にごくごく牛乳を飲むように聴いた。(実際、牛乳もめちゃめちゃ飲んでたよ)


私が高校生の時は、まだMD全盛だった。フリッパーズギターのアルバムを友達が焼いてくれたりと、



今でも、小沢健二スピリットが私の中にはある。


数年の海外生活を経て、2012年に小沢健二が書いた文章だ。


とってもすばらしい文章。
以下、私なりの抜粋意訳。

専門家じゃなくても、政治を語っていい、政治家しか政治を語れないなんておかしい。


だって、音楽家じゃない人たちが、このアルバムはどーだあーだって批評や批判をするじゃないか。
音楽家じゃなくても、音楽について語っていい。
政策の対案をだせ?

音楽を批評した相手に、じゃあ音楽を作曲してみろっていうか?それは才能がない人がいう言葉だ。
みんなが自由に音楽ついて愛を語るように、政治について批判していい、デモももしていい。


この私なりの意訳を私は何度も何度もこの数年間、反芻していた。

そして
『はりぼて』をみて、

8年ぶりに小沢健二のこの文章を読み返したのだ。

読み返して気がついた。


私がずっと思っていた違和感は、小沢健二の文章に無意識に影響を受けていたんだなあーって

小沢健二、ありがとう!

8年前から考え続けた私、えらいぞ!(唐突に自画自賛)


ふー、自画自賛したところで、もうすこし遠回りをさせてください。

私たちは夫婦はとても議論する。
映画や演劇やトークイベントやライブをみたら、この映画のテーマはなんだったか、本質について話す。劇場をでたら、ヨーイドンで話す。

夫と交際してから始まったそれは、私は最初は戸惑った。その映画の世界の雰囲気とか、感情とか反芻したいじゃない?

ボロボロに号泣したら、数時間はゆっくりその感情を味わいたいじゃない?っていうのが交際前の私。

でも、夫は容赦ない、前述したけど、ヨーイドンで議論する。

どうやらそれは「批評」というらしい。夫は好きな批評家がいて、東浩紀や、浅田彰や、柄谷行人とか、
私はそういうこと知らなかったから、びっくりして、
だけれど、そんな夫と交際して結婚して、干支が一周も回る間、批評、批評、そんな生活をすると、日常に議論は溢れてくる。


読んだ本や生活の中での知恵のアウトプットの相手は夫。感想や、批評をする。情報を交換する。感情なども一旦情報として交換する。

これは批評に値するかどうか?常にそれは私たち夫婦の指標だ。

時に、議論は白熱する。
すると
10歳になった息子や、3歳の娘がいう。
「おとーさん、おかーさんケンカしないで!」って

私はいう「ケンカじゃないよ。これは、議論だ。」って
もう思春期にはいりだした息子はいう「めんどくせー」
娘はよくわからない顔で困っている。

ごめんね、きっと大人になったらわかるから、ってそんな陳腐な言葉を私は飲み込む。

日本の教育は「議論」することに慣れていない。先日、教育熱心な友達2人から、授業参観でのお粗末なディベートの授業について、話を聞いたばかりだ。


私の息子の授業参観ではディベートはなかったので目撃はできていないが、安易に想像できる。


だって私たち島国の日本人は、村社会で多様性を受け入れることですら不慣れだ。
ディベートなんてする必要性ないんだもの。


しょーがいしゃがいたら見て見ぬふりをする。後ろ指差して笑う。おとこおんなとかオカマっていう人たちは馬鹿にされた。せいしんしっかんしゃは牢屋みたいな分厚い壁の部屋にぶち込まれてた。ブルマを履いて、出席番号は男子が1番。委員長は男性。副委員長が女子。相撲も体育の時間っていう平等に教育受けることができるはずなのに、土俵に女子は上がれない。体育館のバスケットジャンパーの円の中で相撲を取る。

途中からなんだか、おかしくなったでしょう?私の小学校には校長先生の計らいでグランドに土俵があったのだ。
これは全部、私が小学生の時の話だ。


私はそんな社会をおかしいなーってずっと思ってた。


今は、車椅子スペースはスーパーの駐車場にですらもどこにでもあって、オストメイトのついたトイレもあって、精神疾患者の劣悪な閉鎖病棟は見直され、LGBTQ運動で少しずつセクシャルは寛容になってきている。シスジェンダーだけの社会ではない。ブルマという悪しき文化はなくなった。出席番号は男女混合。みんな、さん呼び。くん呼びの廃止。委員長は男女関係なくなることがきでる。

誰かが声を上げ続けてくれたから、少しずつだけど社会は変わってきている。私はそれが希望の光だと思っている。

多様な社会を受け入れることが、社会をよくすることに繋がると信じている。


だけれど、ちょっと心が折れてた。
私がどんなに声をあげても社会は変わらないんじゃないかって、ムクムクとそんな感情が持ち上がっていた。


だって、だって、だって!私はいつだってマイノリティだからだ。
メジャーになれない。どんなときも。
私は右でも左でもない。
中庸でありたいなって私は思ってる。中庸っていうか透明性があったらいいなって

保守のへんくつ爺と、保守嫌いのへんくつ爺は似てると思う。自分の考えと合わない人を排除する考えじゃ世界はよくならないと思うもの。

私は、綿貫さんもすてきだなって思うし、だけれど、自民党ばんさーいとは言えないんですよ。私なんて最後のロスジェネ世代で、ゆとり世代の走りで、めちゃ辛酸舐めまくってるからね、、、
だから、自民党政権に対して不平不満が募る。
アベノミクス?ちゃんちゃらおかしいって思いますよ。

でも!!!
『はりぼて』のすばらしいところは、暗に、自民党のネガティブキャンペーン映画ではないところ。
私の尊敬する映画監督の一人である、想田和弘監督の観察映画を彷彿とさせる。

『選挙』『選挙2』が不屈の名作だ。
私が政治に興味をしっかり持ったのは、『選挙』がきっかけだ。それから、毎回必ず投票に行くようになったし。

『はりぼて』は

ドキュメンタリーっていうよりも観察に近いのだ。
右とか左じゃない、中庸だ!


そして、熱がある。熱量のあるまま、映画は終わる。その熱は、観客に感染する。

いま、世界中でパンデミックが起こって、安易に「感染」なんてワードが使えなくなっているんだけど、
私は、すばらしいライブ(映画でも演劇でも音楽ライブでも美術館でも)を観た後、ああ、感染したな、って思う。それは私の血肉になる。
何度も何度も、反芻して味わう。批評して、アウトプットして血肉にしていく。

この熱量のある『はりぼて』をみて、みんなが動いたら、
もしかして、富山から渦は起こせるんじゃないだろうか??

私も、諦めない。
劇作家として、社会をよくする戯曲を書く。
誰しもしあわせになる権利があるっていう戯曲を書き続ける。世間をアーキテクツする戯曲を書く。

マイノリティでもいいじゃない。それも社会の一部だ。
声を上げ続けることが大事なんだって映画をみて勇気をもらったよ。

けれど、急に世界は一掃なんかしない。私は知ってる。もしそんなことが起こったらカルトだと思うし、それこそ、誰かが、血をみるんじゃないかな?

ゆるやかに世界が変わっていったらいいんじゃないかなって、思っている。

小沢健二も書いてる​

逆に保守的なのが嫌いな方は、熱を全部吐き出してしまわないように、熱を身体の中に残しておくように、する必要があるのかもしれません。(原文ママ)

『はりぼて』監督の、二人は、熱量がずっとずっとある。そしてその熱はまだまだあって、全部は吐き出してないように感じた。

ねえねえ、でもさ、社会は変わる必要ってあるのかな?

なんて、意地悪な質問が飛んで来そう。私はずっと社会が変わる前提で話を進めているから。

「空気を読む」って言葉があるけど
「停滞」すると「水」が腐る。水が腐ると空気も腐る。えらい哲学者が昔そんなことを書いてたはずだ。


同じ権力が続くってことはどうやっても水が腐るのでは?

前年度の行事をトレースしつづける行政や学校教育はどうしても腐るんじゃないのかな。腐らない方がおかしい。

世界はこんなにもカラフルなのに。

でも、最近がぜんたいてきに腐りすぎて
くさくてくさくて
声を上げることすらも憚られて

戦争に利用されちゃった美術家や作家のことを時々考えてた。

イデオロギー演劇は私はぜったいに、やらないよ、って

でもテレビをつけると、え、これは印象操作にならないの?って思うことがある。


私のTwitterのタイムラインでは多様な政治批判が溢れてるのに。。。


ああ、この国のジャーナリズムは死んだのだ、と。

おもって、いた。

ので、『はりぼて』をみて、うれしくて震えた。ちゃんと闘ってる人がいた。しかも富山県で!

私はうれしくて泣いたのかも。五百旗頭さんと砂沢さんの背中をみて悔しくて泣いたんじゃない。だってここはスタートだと思ったから。

私と夫は、政治の話になるといつも議論がヒートアップして、喧嘩になりそうになる。応援している政治家たちも違うし。誰に投票したかお互いに知らないままの場合もある。たとえ夫婦であっても宗教や政治思想は自由でしょう?


だけれど、とても仲のいい夫婦だ。


これって稀なんじゃないかな?って思った。
そして、これは、ニュースタンダードじゃない?私たちすっごくカッコいい夫婦じゃない?

息子もめんどくせえなあじゃなくてうちの両親はいつも議論してて今思えばちょっとかっこいいよねって大人になったら言ってくれないかなあなんてことを夢見るよ。


だから、友人との会話の中で、好きなジャーナリストが選択肢にあがったらいいのになって。

私が小学生の時から社会に疑問をもてたのって、当時の教育テレビ(現・Eテレ)の池上彰の週刊こどもニュースのおかげだなーって思うもん。
あと、新聞もちゃんと読んでた。当時のジャーナリズムも池上彰もカッコよかったなー。

高校生になって、筑紫哲也のNEWS23をみてた。私はそこで柳美里も、劇団態変も知った。いろんな社会情勢を知った。


そんな恩があるからだ。

私には好きなジャーナリストがたくさんいる。
伊藤詩織や、フォトジャーナリストの安田菜津紀。

愛読しているポリタスの総合編集をやっている、津田大介。

社会学者の宮台真司といつも奥の深い対談をする神保哲生。

はりぼての書籍の解説も書いているキャスター兼ジャーナリストの金平茂紀。

書き出したらキリがないのでここまでにしておく。

さて、脱線しまくりだけれど、『はりぼて』に話を戻そう。

あっという間の100分間。笑あり涙あり、憤りあり。
映画好きをもちゃんと満足させて、しっかり最後まで堪能できるエンタメになっている!


そして、政治にそこまで興味のない映画ファンでも、観た後、政治について語りたくなること間違いない。

私のいま、最も注目しているジャーナリストは、五百旗頭幸男、砂沢智史だ。

社会はきっと良くなる。

社会は愛に溢れている。


小沢健二を聴きながら、この文章を書いた。

「愛し愛されて生きるのさ」

愛をもって政治について語ろう。それが ライフ。 
生活だ。


(文中に登場する方々、すべて敬称略させていただきました。順不同に大好きです、)

追伸:

北日本新聞に月に1回『しあわせな日々』という文化コラムを書いていて、今月は『はりぼて』について書かせてもらった。

富山では、選挙法の関係上、『はりぼて』の上映が10月31日からされる。

私は想像する、毎日、満員御礼の映画館を。

しかも、舞台挨拶、監督のお二人はもちろん本当に贅沢なゲストがたくさん登壇する。県外からでも観に来るお客さんがいるんじゃないかなあ?と思うけど。私はぜひとも富山県の人にみてもらいたいと思うのだ。

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