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『日本の住宅遺産 名作を住み継ぐ』


ダイジェスト

● 100年前は住宅が大きく変わった頃

1920年頃
 第一次世界大戦を経て、大正デモクラシーを迎えていた。明治以来の西欧化が中流階級まで浸透し、玄関脇に洋風の応接室を設ける、床に座るから椅子に座るなどの「和洋折衷」の住宅が生まれた。
 16年に帝国ホテルの設計を依頼されたフランク・ロイド・ライトが幾度も来日。そこで交流を持った遠藤新や田上義也が影響を受けた。ライトとともに来日したアントニン・レーモンドも設計事務所を開設し、前川國男や吉村順三などを育てた。
 23年に発生した関東大震災の被害が甚大だったことから、耐震や耐火が注目される。耐震構造の父こと内藤多仲がRC壁式の自邸を建築している。そうした技術の黎明期の中、震災復興住宅供給のため組織された同潤会は、耐震、耐火、電気・ガス・水道などの設備を売りにしていた。

○ ダブルハウス(近江八幡)

 ヴォーリズが設計した建築も、クリスチャンらしい奉仕の精神に満ちている。彼は、建築設計者は施主の意を汲む奉仕者だと考え、使う人のために最新設備を採用し、効率的な間取りを考案し、さらに日本の伝統にも関心をもつなど、固定観念に縛られない最善の道を探った。
 ダブルハウスの特徴は、たとえば戦前とは思えないほど充実した台所などの水まわりだ。廊下を短くし、時間と労力、建設費を抑えようともしている。「体も学歴も時間も神の所有」とするヴォーリズならではの効率的な住まいである。

p.85

● 終戦後は「小さく、安く、早く」

 1945年の終戦以降、焦土となった日本は、深刻な住宅不足を解消することが急務だった。資材や労働力に限界があるので、急を要しない建築が規制されたり、47年には12坪以上の新築が禁止、のちに15坪の緩和されるが、50年まで規制は続いた。同時に、大量生産のための工業化、規格化の研究が進められた。「安く、小さくつくる」という観点で、住まいのあり方が抜本的に見直されたのである。

50年代の住宅は、社会的な課題と正面から向き合った姿勢と、貧しくも潔い原型の追求から生まれ、多種多様な住宅が溢れかえった現状に見慣れた目で見ると、今なお見習うべく、襟を正したくなるものばかりだ。

p.123

○ 旧園田高弘邸(自由が丘)

住宅を継承しようとするとき、すぐに引き継ぎ手を見つけるのは難しい。継承者を探す方法にはどんなものがあるか。たとえば、一見したところでは文化活動に見える集客力の高い催しを開き、その活動に関心を示して参加した人のなかから、引き継ぎ手を探すという方法がある。
世界で活躍する演奏家たちが、増築部分に置かれた園田のピアノを弾きに集まり、演奏会のレベルに負けじと、第一線の建築家や建築史家も吉村順三の魅力を語る。継承者を探す活動でありながら、この住宅への理解もどんどん深まっていく。

pp.142-143

● 思索の深度が継承の射程を決める

 1970~80年代、住宅不足が解消した後は、個々の建築家が独自に選んだ主題を、深く掘り下げて考察した境地が具現化される。社会の状況が変わっても、それらの思索に対する共感があれば、継承される期間が長くなっていくのかもしれない。

○ ブルーボックスハウス(上野毛)

「かっこよければ、すべてよし」。宮脇檀が語った言葉である。(中略)外観は、いかにも「箱」だ。
外観から想像される、箱の内部のような単一でドライな空間があるわけではない。自然と人工物、内と外、混構造などの二つの概念を、二元論と称して調和させるのを、宮脇は得意としていた。

pp.164-165

分かりやすさと、理論の深さの両立も、宮脇らしい。(中略)住民が素直に「かっこいい」と思えたことで、住み継がれてきた。あまり住宅に使われる褒め言葉ではないから、代々の住人が「かっこいい」と声を揃える住宅は、それほど多くないだろう。こういう表現は理屈ではない。つい口を突いて出るものだ。

pp.166-167

○ 代田の町家(代田)

「代田の町家」の普遍性とは何か。この住宅は「意味をはぎ取る」ことを意識してつくられたのである。
大理石からは高級な洋風の印象を受けるし、木目の板材からは伝統的な日本の意匠を連想するかもしれない。材料に、社会や個人が「意味」を付加しているということだ。それは必ずしも悪いことではないが、ある時代の風潮や、特定の個人の価値観が反映されていることでもあり、時に窮屈にも感じる。坂本一成は、その「意味」を、できるだけ住宅から感じさせないように努めたのである。
たとえば、床の大理石においては、小規模な住宅に、しかもほとんど装飾のない「高級な洋風」とは異なる雰囲気のなかで、大理石を床一面に用いることで、「高級な材料」という「意味」を消している。
何々風とか、何々様式といったイメージから解放された、純粋な器として自立しているように見え、だからこそ、普遍的な家のあり方のひとつにも感じられる。

PP.189-190

「意味」をはぎ取り、ある時代、ある個人から遊離した住宅は、時を隔てて住人が変わっても、すぐになじめるのかもしれない。

p.191

○ 目神山の家5(西宮市)

もともと保安林だった目神山は、敷地の40%前後の造成しか認めないという条件で、宅地として整備されたはじめたため、地形や樹木が生かされた住宅地になっている。特にその街並みに貢献したのが、石井修だった。
石井が設計した20軒は周囲にも影響を与え、目神山の文化は石井がつくったといっても過言ではなく、ほとんど一人の人間の意思が波及することによって、街が生み出された。

pp.193-194

実は、20軒ある「目神山の家」は、まだ一軒も壊されていない。(中略)“目神山”や“石井修”のよさを購入者に説明をして売りに出す不動産会社もあるという。

p.194

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