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坂本龍一と人の辿り着くところ

”世界の教養” 33日目は音楽の話だったけれど、これは私にとって目新しい内容ではなく、むしろ最近読んで聴いて浸っている坂本龍一を思い起こさせたので、坂本龍一について書くことにする。

と言っても、私は坂本龍一について詳しいわけではなく、最近坂本のスコラのバッハに触れたばかりなので、かなり浅い。それでも私が発見した二つのことを、誰かに伝えたい。

一つは、坂本が「音」に辿り着いたということ。
私が知った範囲で、坂本はかなり音楽の歴史や理論に詳しい。”世界の教養”なんかで音楽理論を学んでいる私は話にならないとしても、音楽の歴史・発展、音楽家の関係、理論の原理と応用、あらゆることを知っている。
それは坂本自身がやってきた音楽の形態を見ても明らかだ。
そんな彼が最後に辿り着いたのが、自然界にある音だという。

私は最近の、最後の坂本のアルバムはまだ聴いていないのだけれど、身の回りにある音、日常の中にある音、に関心が移って来たらしい。
それは、彼がガンに侵され、闘病していたことと関係があるような気がする。
病むと、日頃何気なく通り過ごしてきていたこと、当たり前のように感じていたことが、愛おしくなる。
死を意識すると、なおさらではなかろうか。
もう自分の手を離れるであろう日常、道端の草花、薄汚れた壁、車の音や人の喧騒、風の音や扉が閉まる音。すべてを丁寧に感じたくなる。
音楽のすべてを知り尽くした彼が、最後に大事に思った音楽が、日常生活の奏でる音だったのではないか。

二つ目は、子どもたちに希望を見出す境地に辿り着いていたということ。
私が今浸かっているスコラは、音楽の学校で、本の価格からすると、私のような大人を相手にしているともいえるけれど、YouTubeの学校では生徒に子どもたちを募っていた。そして、有名な東北ユースオーケストラもある。

坂本の人生の後半は、社会的な発信もいろいろしている。私はその主張にかなり共感するが、それだけに、思うように良くならない社会にもどかしさや憤りも感じていたのではないかと思う。
今の社会に、今の社会を担う大人に幻滅するとき、それでもあきらめずに活動しようとする人は、将来を担う子どもに期待する。
坂本もそうだったのではなかろうか。

それでも、これが坂本龍一だと思ったのは、社会的な学校ではなく、あくまでも音楽の学校にしたということ。
調性の話をする中で、一つの同じ調性というルールだけ用いれば、あとは各自自由に好きなように弾いても、まとまってすばらしい音楽になっていた、というバッハの講義は最高だった。


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