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ウイングカップ10総評+

 今回推したのは私にとってある種のつたなさを感じる作品だった。面白いと思ったものを面白いと推せばいいのだが、それでよいのかという逡巡もあった。つたなさをしょぼさやまずしさと言い換えてみることが出来るからかもしれない。特に問題は、そのつたなさが生み出している(と感じられる)その価値は作り手の意図にないと推測されるときであり、今回私が強く最優秀に推すことができる団体/作品が無かったのもこれがある。結果私はその作品に、つたなさの中にあると思われる何らかの価値を、自身の感覚と膨らませた妄想に基づいて積極的にひねりだし言語化し、与えたことになるのだが、それが結果として作品そのものと、演劇祭そのものを無暗にハイコンテクスト化してしまうのではないかという思いにも駆られたのだった。つたなくない?演劇と、つたないけど興味深い演劇のおもしろさ(、という私の趣味)を繋ぐおおやけの言葉をどうおおやけに紡いでいくのかが、もうしばらくの間審査する側の立場として(これまた大変つたないながらも)批評的言説を扱う人間には必要であることを痛感する。

 話はずれるが、久々に目を通す機会があった別役実「マッチ売りの少女/象」のあとがき(というかあとがきの体をした尾形亀之助論)を通して「おおやけ」の困難さについて改めて思う今日だが、それはあの文章の一読して何か掴んだ、と思ってもすり抜けていくような感触が表しているようにも思え、それは日本の「おおやけ」=「世間」であることの困難とでも言い換えられるのかもしれないと思った(阿部謹也によると、世間はあくまで自分が関わりをもつ人々の関係の世界と、今後関わりを持つ可能性がある人々の関係の世界に過ぎず、社会と等置できるものではない。そして今SNSによって世間は際限なく拡張され続けられているともいえる)。
 そして今(あいトリの一件以降特に、というべきか)は、SNSの加速させた同調圧力—日本的集団性(としか言いようのないもの)を基にした「世間」から外れている・外れようとする芸術家文化人が、集団性の維持のために世間からパージされるターンの様相を呈している。世間は芸術家の思うほど(その芸術家の指すところの)文化芸術を必要としておらずそもそも知ることなく、知ったところで芸術家の大半は世間から外れたマイノリティのアイデンティティ・ポリティクスをやり続けているようにも見えているため、「なにをやってるかわからないひとたち」—別役氏の文章における「巷で「アレ詩人よ」と云われる「詩人」」、「一個人の「二元的態度」に過ぎ」ない私的な行為者であり、また「詩人も、劇作家も、画家も、音楽家も、それが有名であれ無名であれ、彼が詩人であり、劇作家であり、画家であり、音楽家である以上に有名ではない」という当時別役が「新たな危機」とした状況は続いているが故に、「〇〇家である以上」を超えて「おおやけ」に何かをアッピールしようとしたところで、そこは彼らについて何も知らない・関わりを持つ可能性すら想定できない「世間」であり、両者はひたすらかみ合わず空転しすれ違うばかり、のように見える。どちらが悪いというものでもなく、世間と芸術家が互いの必要性を高めていくことなく長らくおおやけを協同(?)できてこなかった帰結というかあるいは、別役氏が述べるところの「文明を構成するトータルな意識構造」の結果、とでも言えばよいのかもしれないが。

■ 点滅して冬
 乱暴に要約すると認知症の母を持つ夫婦が、一見怪しげな団体の勧めにより安楽死(という名の自死)を望む母の選択を受け入れるだけの話なのだが、もし私があの夫婦だったら、あの息子だったらどうするのかとずっと考えていた。自分の母親がもし認知症となりあのような形で自身の人生を終わらせたいと言ったとき、(あくまで私はだが)私はこの劇のように息子たちのように冷静に受け入れることが出来るのかというと、出来ないのではないかと思う。たぶん。安楽死に絶対反対ではない。ただ、いざ自分の肉親が安楽死の当事者になったとしたら、という可能性を、実は、この作品を観て初めて強く考えた気がする。何故だろう。
 この作品を上演するにおいて、観客も、上演に関わる人々もその役割に関わらず、こういったできごとについて考えざるをえないと思う。あの結論を、個人的な視点であっても肯定も否定もまだ出来ない。ただ、まだ若いであろうこの作品を創った人たちは、この事象についてあくまで身の丈で真摯に考え、調べ、実践していたのではないかと感じる。何故だろう。
 途中から私は、これはある物語を提示する劇というよりは、彼らにとってのある事象にまつわるレッスンであり、シミュレーションであり、ロールプレイとしての劇なのかもしれないと感じはじめた。認知症の母や叔父さんといった年配の人物を演じる俳優も他の俳優同様皆若く、そして映像で見る限りではあるが(失礼な言い方で恐縮ですが)、年齢の離れた役も完璧に演じきれるような天才ではないために、どうしても高齢者の「体」(てい)、高齢者のつたない「ふり」になる。しかし、それらを完璧に演じ切っている様を容易く表出できるような超絶技巧憑依型天才が出演していたとしたら、私はこの作品にレッスンだとか、ロールプレイだとかを感じることはなかったかもしれず(「演技」や「俳優」は時としてそういったものを阻害するのかもしれない。ブレッソン曰く「俳優の演技はあらぬところへ目を迷わせる」)、そして作り手も恐らくだがそれを意図してはおらず(「あるコンセプトを見事にプレゼンするパフォーマンス」では無い、ということ)、それは舞台美術も含めたある種のつたなさ素朴さの結果なのかもしれず、それ故いわゆる見せ物としても簡素ではあるが、私はこのような演劇は必要だと思っている。

■ 劇団三日月
 個人的には前回の作品に比べて非常に興味深いものでした。前回における、作家の脳内世界ご都合主義の典型といえるものが今回では、そのとんでもない出来事の連鎖は登場人物にとっての運命だったではないか、とも思わせる奇妙な不穏さに変換されているように感じました。言うならば、平凡な家族が偶然の様々なつながりを経て、気が付くと隣り合わせの存在であった大きな暴力に巻き込まれ、それが通過していく様を見ている、といえばよいのかもしれません。またその後、何事もなかったように元通りになったように見える家族もある意味不気味です。この作品は、描写の淡白さ世界の狭さが逆に恐ろしいのです。そして(たしか「シェパード」という名前であったと思うのですが)、この世界の中で暗躍しているらしい痴漢集団(?)の存在や概要が登場人物間の会話で触れられますが、最後までそれが詳細に描かれることなく物語が終わるのも大変不穏であり、不気味です。
 率直に言うと、これもある種のつたなさに邪推を膨らませたのかもしれません。作り手にその意図はないのかもしれません。恐らくないでしょう。しかし、世界は常に何が起こるかわからない乱暴な場所であることを乱暴に描こうとすると、このようになってもおかしくないのではないか、と感じたのも確かです。

■ 中野坂上デーモンズの憂鬱
 確かに俳優の技量、スタッフワーク、総じてこれぞ小劇場演劇的な圧倒的なテンション、一番「仕上がっている」し、抜きんでていました。大枠的には書けない劇作家のベタなあるあるメタ演劇なのですが、ザッピングされる様々なエピソードの中には魅力的なものもあり、特に馬鹿馬鹿しさとクリティカルさが絶妙な「iPhoneの方がむしろ私」など、これだけで1本作れるんじゃないか、と思ってしまうからこそ放り投げるようなザッピングがもったいないと感じることもあるのです。
 作家自身が出てくるメタ演劇には恐らく、理性でもって精密に構築されたものと、ほんとうに書けなくなってやむにやまれず作家が出ざるを得なくなってしまったものがある、のではないでしょうか(率直に言って私は作家ではないのでそのあたりは詳しくわからないのですが、他のパターンもあるのかもしれません)。この作品はどちらなのだろう。作品全体から受ける印象としては混沌とした後者ではあります。ただこの混沌はやむにやまれずどうしようもなく結果混沌になってしまったというよりは、あらかじめ目指された混沌ではなかったか、そう仕向けられた混沌は混沌なのでしょうか。狂人は自分のことを狂人と思っている狂人と言えるのでしょうか、狂人は本当に狂人になりたくてなるのでしょうか。ベタに作家の脳内そのものでしかない(と宣言すらされる)世界に作家自身も生き生きと出てくる身も蓋もなさにパンツを脱いでいるすべてをさらけ出している、と捉えるのかパンツを脱いでいるすべてをさらけ出していることに安住している、と捉えるのかは評価が分かれるところかもしれません。

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