ウイングカップ8総評

■ 総評
 ウイングカップで審査側として関わらせて頂くのももう4回目となるが、今回は特に、ウイングカップとは何か、ウイングカップで「最優秀団体」として送り出すことはどういうことなのか?ということを改めて考えさせられた。
 私はウイングカップというコンペに何を求めているのだろうかと考える。それは幾つもあるのだろうが、まずは新しい・独特な(ものなどもはや無い、とは言えるのですが、それでも)価値観・ステイトメントとの出会いと、そして審査する側がすべきことは、そんな価値観・ステイトメントを秘め、それを継続して上演に移していける自力を持つ、或いは今後そうあってほしいアーティストをバックアップし、世に送り出すことだと、とりあえず今は思う。
 総評としては、旗揚げ公演が多かったこともあるが、今回はどこか「小さな」作品・身の丈に実に忠実で素直な作品が平均して多かった印象がある。総合チラシがある故なのか、各公演単体のチラシを見かけることが少なかったのも時代の流れなのだろうか。勿論そのことを単に否定的に捉えているわけではないが、率直に言って物足りなさが無いわけではない。 コンペはある種の賭場であり、故にハッタリの効かせどころであり、簡単に言うといちばん気張るところではないだろうか。集団の地力、ポテンシャルはそこに垣間見えてくる。
 今までの受賞団体の上演はある程度それを前提と感じられるもので、私はそこを評価の対象の一つとしていたように思うのだが、今回はそれを感じることは少なかったように思う。最優秀団体無しという結果で落ち着いたのもそこに理由があると思われる。

■ うさぎの喘ギ
 妊娠・出産という行為と深く結びついている女性という性が、いかに日々様々な種類の暴力や抑圧、不安に晒されているのかということを、選挙やシン・ゴジラや痴漢防止バッジや居合わせた人身事故の話題を交えナチュラルに記述していくテキスト。それを俳優たちはそれぞれ読書・編み物・デジカメと戯れつつ、役をシームレスに入れ替えながら、いわゆる関西(大阪)の俳優のオーソドックスな演技体―ある「役」を熱量をもってして演じるということ―から距離を置いた、いかにもな現代口語演劇・超口語演劇以降のスタイルで体現していく。テキストは男性作家がお勉強して書いた感が無きにしも非ずだが、その自然な手つきにまずは驚く。この平熱感を立ち上げるには明確な意図とある種の技量が必要だろう。そして、この作品に感じる「小ささ」は理由は何であれ、その主題故にあくまで意図を持って選び取られた必然の形式であると了解させるものがある。しかし、上演時間約60分の中でなぜほぼ同じシークエンスが2回繰り返されるのか、最後まで私は了解することが出来なかった。そこに積極的な意義を見出だすことが出来なかった。ともあれ、一度フルレンスの作品を観てみたい、と感じさせる作品だった。
 小津安二郎の没後公開された手記の中に、「黒澤、溝口たちは声高の作品を作り、人を驚かせようとする。自分と成瀬だけが声をひそめた映画を撮る」という一節がある。現代は以前にもまして声の大きい者が強い時代である。しかし、無論小さい声しか出せない、持たない人もいる。
 この作品は声をひそめた劇の重要性を教えてくれる。

■ 0F[ゼロフレーム]
 平均した総合点の高さ。まず、さすがに練度の高い、きちんと基礎が出来ていると見受けられる俳優が揃っている。力押しのきらいもあるが、不条理で突飛な展開や設定やエキセントリックな人物が陳腐にならず成立しているのはそのためだろう。内容も三本立てオムニバスとしてよく出来ている。思い込みや裏切りのために日常からふと逸脱してしまう人々。ダンスや笑いも交えながら、単なる娯楽に終わらない苦い後味も効いていると思う。
 ただ、これをウイングカップというコンペの枠組みでどこまで評価するのか。佳作の枠をはみ出る傑出した色合いがさらにあれば、また違う結果であったかもしれない。

■ 劇団不透明
 まず、どうして女が落ちているのだろうか。どうして落ちているのは男ではなく女なのだろうか。この作品は、男は落ちていてはいけないもので、落ちているのは女でなければならない、とでも言いたげだ。
 ありがちな指摘だが、この作品には他者が本当にいない。ただ作り手の脳内そのものである(と感じる)。それ故になのか、この劇で使われる劇言語は抽象性が高いものが多い。そして、その抽象性は俳優の肉体を以てしてもその言葉のイメージを広げるものになってはいない。どうやらこの劇の登場人物にとっては恋愛が世界の大部分を占めているようだが、例えば、この劇における宗教、神様とはいったい何なのだろうか。ネットスラングにおける「ネ申」が一番近いのかもしれない。それがネタ的にでもなくメタ的にでもなくただナチュラルに、ベタに使用され発話されること。「神」がその内実や歴史やある偶像に対する信仰を欠いた、単なる超越的ななんかスゴいヤバいものを指す言葉として、何の屈託もなく、だがそれは切実に発せられているのではないかと感じられることは、現象として興味深いとはいえ、作品全体を満たす、ネタでもなくメタでもなく自己言及的になるわけでもない、ただベタな自意識の発散が続いていく時間を私はシェア仕切れなかった。

■ cocoon
 自作を解説するということが、なんの衒いもなく自作を解説することとして自作だけに仕向けられていることが、結局作品に何ももたらしていないのではないだろうか。それは俯瞰でもメタでもなくありがちなただの自分語り、或いは言い訳、それ以上でも以下でも無くなっている。客観性・批評性に欠けるありがちなだめな演劇やってるだめな私(たち)語り、とりあえず一歩目を踏み出してみて、さあこれからどうしていきますか、観客という外の世界と関わっていくんですか、でも自信が持てない、どうしようか、その躊躇している様をそのまま観ているという。しかし、その作品自体は今まさにそこで観客に向けて発表されている―そのことは興味深いのだが、これもまた結局自作を巡るベタな自意識の発露に回収されてしまっている。
 ただ、こんなに筋力の無い、演劇に真面目に疲れている作品で旗揚げするというのも興味深い。これからもっとコクーンに閉じこもるのでしょうか。閉じこもるのなら、言い訳すらできない、誰もいない遠いところまでもっともっと、もっと閉じこもってみるのもよいのではないでしょうかと。

■ Continues
 かつて高校演劇部だった男たちも、今はそれぞれの道を歩いている。家業を継ぐやつ、就職したやつ、起業したやつ、まだ演劇をつづけているやつ…まあそれが普通だ。そして演劇を続けている二人の男の仲違いも、現実以前に映画や演劇やテレビや小説やらなんやらで今まで飽きるほど観た類のものである。
 ただこの凡庸さに対して、お話のケリをつけない形でのケリのつけ方は嫌いではない。あの割れる石。このすべてが突然断ち切られたかのような終わり方は、彼らの人生が劇の時間の外でこれからも続いていくだろうことを想像させはしないだろうか。私たちは私たちの人生を、そのケリがついた地点から眺めることは出来ないのと同じように。彼らの凡庸さと私たちの凡庸さはどこか似ているのではないだろうかと思わせるのだ。ただし…それが作り手の意図の内にあるのかはわからないのだが。

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