大阪時評①
「精華小劇場の閉館にまつわる考察」
大阪市初の公立劇場・精華小劇場(http://seikatheatre.net/)が3月末に閉館する。暫定10年計画で04年に開館したが一転、07年に財政難の市が売却の方針を定めていた。しかし、私たちはこの10年で幾つの劇場を失ったのだろうか?大阪小劇場のゼロ年代は「劇場が」失われた10年の側面も(が)大きいと言っても過言ではない筈だ。
思えばこのディケイドの基調をどこか決定付けたのは扇町ミュージアムスクエア(OMS)閉館と翌年の近鉄劇場閉館だった。そして追い討ちをかけるように約6年の短い歴史に幕を下ろす精華小劇場は、OMSの後継・新たな拠点劇場の役割を担っていた。もし存続していれば、演劇祭終盤のラインナップが示す様に、幅広いジャンル・世代のアーティスト達の交流可能性を秘めた空間として門戸を開放してゆく未来は十分に在ったはずだ―しかしそのポテンシャルを発揮する前に訪れたこの結末とそこに至る10年を考える時、それは「大阪」という街は勿論、大阪の小劇場シーンが必然的に呼び込んだ状況ではないかとも私は感じる。
それは良くも悪くも演劇というジャンルへの「外部」を欠いた無邪気な信頼ではないか。観客動員を拠り所にした東京進出を図るわけでもなく、ファインアートとしての小劇場演劇を戦略的に打ち出す京都のような土壌にいるわけでもない大阪の演劇人の大多数は、「お芝居が好き→目標は続けること」という前提に留まり続け、気付けばキャリアを問わず「いいお芝居をつくる」という漠然としたルーティンワークとしての私的実践に勤しんでいる。それは決して否定されるべきでは無いが、そこでは公への視点も表現そのものに対する問い直し・実験も稀であり、その射程には大阪の芝居好きしか存在しない(ものが多い)。大阪の演劇が盛り上がっているように見えるのならば、それは各々のタコツボの中で自分達の顧客と共に盛り上がっているに過ぎないのではないか。
OMS亡き後大阪の小劇場文化を支えたのは紛れもなく民間の小劇場だった。そして精華に求められていたのはそれらを緩やかに統合し公との回路も開くマクロレベルの環境整備機能ではなかったか。
喪失を嘆くのは誰でも出来る。この街でいかに演劇と向き合うのか、大阪の演劇人は静かに試されている。何故演劇をするのか?誰に対して?演劇は可能か?オーサカという街でエンゲキをすること。精華が見せようとしていた未来を胸に留め、豊かな繋がりと視点を持った私的実践に向け個々が力を養うことがせめてもの手向けであろう。
(小劇場と京都をつなぐ、立ち止まるための観劇ガイドブック「とまる。」NO.12 2011年冬号 より)