ウイングカップ9総評

 私は「かかす」「盲目の動物」「河童ライダー」を主に推した。
 ただ、右脳中島オーボラの本妻「踊る!惑星歌謡ショー」の最優秀賞に異論はない。ウイングフィールドという実は特殊な空間をフルに生かし(5階→6階への移動、舞台側と客席側の独特な使用方法)、テント芝居的ダイナミズムを成立させる手腕は、単純に全団体の中でも抜きんでた見事なものであったと思う。

■ ナマモノなので早めにお召し上がりください。
 思春期の女性の心象風景をビビッドに描くことに成功している云々…というクリシェはさておき、「盲目の動物」という作品は、特にその構造において興味深いものだった(ただ勿論、この構造が劇世界及びそれを形作る俳優のやり取りに独特の緊張感をもたらしているのも確かだろう)。
 私がこの作品に、最終のシーンの有無において二種類のエンディングがあるらしいことを知ったのは観劇し終わった後であり、私はそれをTwitterであったり、他の観劇した人と話すことで徐々に知った。そして、どうやらそれは演出家によってリアルタイムに判断されるらしい。つまり、もしこの作品を観た私がその後インターネットでこの作品について調べることもなく、同じく観劇してそれについて話すような友人もいなければ、私はあの作品に2種類のエンディングがあることを知らないままだろう。そして、たとえ2種類のエンディングがあることを事前に知ったとしても、どの回にどちらのバージョンが上演されるのかは上演されてみないと本当にわからないため、所謂2バージョンのコンプリートはおろか、2バージョンのどちらを見るのか、選ぶ権利すらない。このことが表しているのは、私たちはこの作品の構造について知る権利すら奪われており、見たいものを見ることも出来ないということだ。
 SNSは見たいものしか見ないという感覚を作り出し、見たくないものは見ない環境を促進したという話がある。権力の主体は見る側だ。炎上はその対象を見る側が起こすのである。この作品のひた隠し方から感じられるのは、SNS以降、無意識に見る側の中で醸成されてきた特権意識のようなものを柔らかにスカし、拒絶する態度だと言える。この作品は何かをひた隠すということを観せてくる。そしてこの作品を観た私たちがシェアするのは、何かを観た経験についてであると同時に何かを観られなかった経験である。

■ かしこしばい
 「河童ライダー」において、作家の「僕」にとって書くということは「なんでもあり」「想像したら何でもあり」、だから面白い、らしい。しかし、作家の想像力が生んだ河童はどうやら、腐って死んでしまった「おばあちゃん」でもあるらしい。「何でもあり」な想像力のはずが、半ば見殺しにしてしまった「おばあちゃん」への罪の意識と追悼といったヒューマニズムへと回収されたとはいえないか。作家しかり、人間の想像力はその限りで無限ではなく、常に何かに縛られていることと、それこそが人間という生き物であることがここでは暗に表されていなかったか。しかし、この作品はそこに綻びを入れているようにも思える。「河童はそんなことは言わない」「ばあちゃんならいうんか」そんな台詞がなかっただろうか。僕が生み出した河童は、おばあちゃんかつ河童であるようなのだが、またそれとは別に、河童は河童として存在しているのだとしたら。
 最後のシーン、ありがとうございました、と礼をし、観客席と地続きの現実の時空に立つ緑色の顔をした「僕」に似た存在は一体誰なのだろう。先ほどまでの河童が、腐って緑色になり死んだおばあちゃんへの「僕」の思いが生んだものなのだとしたら、これは違う。単純に、「僕」は河童になったということなのだろうか。いや、もしかしたら作家及び人間の想像力云々とは違う次元で、「河童はいる」のかもしれないのだ。

■ 劇の虫
 そして、「かかす」が野放図な作品なのは、私たちの持つ(情緒と結びついた)想像力から遠く離れたところで、全く無関係にヒトにあらざるものがこの世界に当たり前に存在していることが表されているからではないだろうか。カラスも人も子連れのダンプカーも皆等しい。作者は人間とそれらを並列に並べている。人間と人間にあらざるものたちを区別しない。人間を特権化もしない代わりに、他の者たちも特別に扱うことはない。ともすれば、舞台上で謎の存在感を発揮はしているが、最初は鳥に怖がられるもののすぐ慣れてしまうため効果は喪われ、もはや存在意義を喪失しているだろうあのかかしや、畑につるされた鳥よけのCDとも、彼らは同列なのだ。いちゃいちゃしたあげく中盤あたりから姿を消すカラスのカップル(そして彼らは一体どこへいったんだ?)、あのマイクスタンドすら満足に立たせることもできなければ、録音した音源を流すので精一杯なミュージシャンの女同様、全てが等しく役たたずな存在たちのほとんどによるひとりごとの羅列。しかし、客席の下から出てきた男は言う―「ひとりごとちゃうよ」「ぼくきいてるから」と。
 ところでAIの急速な発展と時を同じくして、幅を利かせ始めた思弁的実在論をはじめとする最新の哲学のモードは人間中心主義批判であるが、この作品もどこか人間中心主義に異議を唱えているようだ、ただし、人間もそれ以外も皆等しく役たたずなのだからという論法である。ただ、この作者はそんな役たたずたちの声を聴いている、という。そのことには奇妙な感動すら覚える。馬鹿馬鹿しさと脱力感を隠れ蓑に、ヒトもヒトにあらざるものも生命も非生命も問わず、すべての存在者を肯定しようとしている様は、ラディカルですらあった。


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