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玉さまと婆さま

正月7日、松竹座に玉三郎の舞踊公演を観にいった。お年賀の口上、「賤の小田巻」「傾城雪吉原」の3部構成はどれもそれはそれは眼福。この状況の中でせめて舞台の上だけでもお正月の明るい気分を味わっていただきたいと、揚巻などの豪華絢爛な衣装を羽織って見せられた。この人はそういうアイデアも含めほんとうにプロフェッショナルにして謙虚、観客と舞台というもの全てに対する敬意がじわじわ感じられたのであった。

さて終演後、うっとりとした気分で外に出るとものすごい寒気と強風。早足で歩き始めると、劇場のスロープから華やかな着物姿の観客に混じってひとりの老女が押しぐるまを押して出て来るのを見た。
80代半ばくらいだろうか、小柄で膝も腰も少し曲がっている。連れはなく一人で玉さまを見に来られていたようだ。立ち止まって手袋をはめ、薄手のジャンパーのフードを被るとよろよろと御堂筋の方へ、まるで家の近所の接骨院からひょいと出てきたような雰囲気だ。てっきりタクシーに乗るのかと思いきや北に向かって歩き出した。突風が吹くたび前に進めなくて俯いてじっとふんばっている。風が収まるとまたゆっくり歩き始める。遅い。たくさんの人がどんどん彼女を追い抜いていく。誰も迎えに来ないのか、なぜもっと厚着して来ないのか、勝手にハラハラしながら自分も同じ方向に帰ることだし後になり先になり歩く。よほど声をかけようかと思ったけれど、このご時世でもありただ離れたところから見守るのみ。
彼女は途中で心斎橋筋に曲がる。その後をわたしも曲がる。アーケードがあるので少しは風もましだが、疲れてきたのかますますスピードが落ちてきた。どこまで歩くつもりだろう、家は近いのだろうか、などとほぼストーカーのような気分になってきた。
やがて周防町の交差点。わたしが青信号をつい普通の早さで渡ってしまうと信号が赤に変わってしまった。老女は立ち止まる。わたしは信号のこちら側から待った。その時、初めてはっきりとその人の表情を見た。


気迫。
それはまさに気迫のようなもの。わたしなんかよりずっと強い意志のある目。きっと舞台が好きで、見たいから見に行って、終わったから帰る、それだけのことなのだ。万が一ちょっとくらい転んでも立ち上がるか、必要なら自分で助けを呼べる人だ。かっこいい。見守るなんてつくづく余計なお世話だった。

それはその日二つ目の眼福。わたしはもう信号の変わるのを待たずに歩きはじめた。

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