一万文字書いたけど書きたいことはまだまだ書けない。

一万文字書いたらどんな想いが出てくるのかを、知りたい。割とnotoにも沢山の文章がたまってきた。そろそろ、まともな文章を書けるようになりたい。しかし、その前に、書きたいように書けるだけ書いたら何を書くのかを知りたい。

素晴らしいものは地獄からしか生まれない。不幸を肯定する弱気な楽観を言葉にしてくれたあの漫画。この苦しみがいつか糧になると妄信していつか、不幸を待ち望むようになっていく。彼は僕より大変そうだ。恥ずかしい。彼女は僕より忙しそうだ。居心地が悪い。成果ではなく過程、過程をどれだけ苦しんだかで価値が決まる世界なら、皆は幸せを願うだろうか。不幸をねだるだろうか。

君は可愛い。ずっとずっと可愛い。それを伝える事がきっと僕の人生の最終目標です。今すぐに電話をかけてもいいですし、たまたま出くわした時に伝えるのも良いですね。僕が君は可愛いと伝え損ねている間、君は他の誰かに可愛いと言われ、僕は他の誰かに可愛いと言い、そうして君の可愛いは世界を救えないまま、ただずっとずっと可愛いだけ。

刺したら血が出た。驚いて抜いたらもっと血が出た。なんてことにはなりません。子供は生まれた時から刃は鋭く危険なものだと知っているのでしょうか。自己と他者が違うと気づいてから、他者と自分が同じだと気づくまでには随分と時間がかかり、それは生きている間には終わらないかもしれないとすら思う。だったらなぜ生きているのですかと聞かれても、答える理由はないよ。それは自分の中だけで言葉にせず言葉に侵されないままの感情として持っておけばいいよ。

嫌だとか良いとかは、言葉であって感情ではない。だからそんなことは言わないで欲しかった。感情を伝えるならもっと頭突きとか抱きしめるとか、人間らしい方法があるはずなのに。君は問題解決の方法を選んだ。慣れ親しんだ方法には自分の意志など入り込む余地など無くしかもそれに気付けないのがとても厄介。厄介だけど便利、便利さが人を生かして僕らを殺していくのを目の当たりにして、それでもいっかと胸をなでおろすのは、それが便利だからなのでしょうね。

ジーニーは、いい奴だけどヒーローじゃない。何でも願いをかなえてくれる、食べきれないほどのごちそうだって出してくれるし、使いきれないほどの財宝だってくれるし、きっと支えきれないほどの力だってくれる。しかも多分、平和、とまではいかなくてもみんなが幸せになる事を願ってるし、悪いやつの願いはきっと叶えたくない、はず。だけど叶える。そういう設定だから。そういう存在だから。いいやつだから精一杯の努力はしてるでも、設定は曲げられない。まるで世界みたい。

中華料理と甘いものが好き。青椒肉絲とか、アップルパイとか。だからもちろんゴマ団子も大好き。中華料理屋のゴマ団子は大抵二個しかなくて、十個ぐらい食べたいのに、しかもそれを二人で分け合ったりする。悲劇。

素晴らしいとか、夢とか、素敵とか、そんな言葉が、書くことに困った時真っ先に出てくる。その先に続けて魅力的になる言葉をほとんど知らないし、知っていたとしても地獄とか我執とか後ろ暗さとか、使い方に注意が必要な、言葉の方に主導権の握られそうな言葉たちで、使うのをためらう。なにも僕は、素晴らしくなりたい訳でもないし、夢を叶えたい訳でもないし、素敵なものが好きなわけでもない。地獄をつくりたい訳でもないし、我執に取りつかれているわけでもないし、四六時中後ろ暗さを抱えているわけでもない。ただ、なんとなく、言葉では言い表せない時間が、来てほしいなとか、ずっと続けば良いのにとか思ってるばかりで。大それたことじゃない。別に大それたことを言わないことが謙虚だと言うつもりもないし、わがままだとも思うけれど、でも僕が思ってもないのに口からするりと夢という言葉が出てくるとき悲しくなる。

泥臭くより良い一回一回を積み上げていくことが、何かを作り上げていくことは、もう大体わかってきた。だから昔よりは、理想通りにいかない事に嫌気がさしたりしなくなったし、鬱陶しいと思う作業にも向き合えるようになってきた。自分が特別に違いないという想いは、結構昔から、出来るだけ引き出しの奥の方に隠すようにしてきたのだけど、だからこそ、ついにここまで持ってきてしまった。これは捨てるべきだとよく聞くし、その意見におおむねんさんせいなのだけれど、なんとなく勿体なくて捨てられない。捨てたら取り返しのつかないことになるかもしれないなんて、希望があるからだろう。実際すてたらどうなるのだろうか。実際に昔にその想いをずいぶん昔に捨てたと語る人たちは、軒並みに特別に見えて、実は捨ててないんじゃないか、そうやって僕たちを普通にして敵を減らしたいんじゃないかなんて勘ぐる。

中途半端なところで言葉が詰まる。書きたいこといつも最後に出てくるわけじゃない。何となく思いついた自分の良い言葉を出してしまってそれからは、文章は惰性で続いていて、それに気づいて打ち切りたくなる。時々それを無視して書き連ねてみると、なかなかどうしてまたもや自分の好きな表現に出会えることは多いのだけれど、少しだけ苦しい。だから区切って、一行開けて少し違う事を書きだしたりする。きっとそれは逃げなのだ。とは気づいているけれど、書くべきことがない今、ある程度逃げてしまうのは必然とも言えて、何か書くべき事が欲しい、仕事が欲しいと願うが、仕事になると逃げられなくなって苦しくなってしまうのも目に見えていて、でも自由に書き上げたものを見て大体虚しい気持ちになるのは、苦しさを避けて書いた文章しか残らないからで、何かをそんな文章が最近増えてきて、その時々はなんだか幸せな気がするのだけれど、結局緩やかに緩やかに自分を嫌いになっていく。勉強に手を抜き始めた後自分の中に何も蓄積していない事実が怖くて古本屋にこもって漫画を読んで戦わず何かが過ぎる、というより具体的に一年が過ぎ受験が終わり、仕切り直しで再スタートとなるのを待っていた日々や、大学でいろいろを諦めて気持ちが楽になったと錯覚して幸せそうな顔をしていたがそのうち何もしていない自分に気がついて誰かに「何もしていない自分結構嫌やろ」と言われ少し安心した後、それでも何もしない日々が続き苦しくて苦しくて、夢を追う人になりたいと憧れて声が良いと言われるからと、声優を目指そうとして、養成所の体験に行ったが別に通うつもりもなく暇つぶしと話のタネにしかならないし、何なら恥ずかしくて誰にも言えず、とこれが俗にいう黒歴史なんだなと思ったりしながら、声優になりたいという想いを緩やかに忘れ、扶養されているうちはというのが枷から言い訳に変わっていった日々に、これはにている。

書くことを仕事にしたい、切実に思う。きっと苦しいし難しい。だけどそう思う。誰かを救う文章が書きたいし、そのためにはとにかく誰の役に立つかも分からないような記事を、誰かの役に立つようにと一生懸命、頭を悩ませながら書くしかない。分かってるからきっと、自分が書いている気になれるだけの文章をブログに書くことはしないのだろう。きっとそうだと信じたい。

一万文字書くと決めたからこれはまだ書き続く。一つの結論めいた思いが出てきたような気もするけれど書き続くよ。自分で決めたルールを守り。それがうれしいという経験を積み上げていきたいなと思う。自分に足りない物の一つは目標達成の経験で、有言実行の意志だ。毎月月間目標を作りTwitterで喧伝するもそれを守ったことはほぼない。なんだかどれだけダメ人間なんだよと思うけれど、過去の自分を責めすぎるのはよくないね。きっと目標達成の為に大切なのは、目標の立て方だったりするのかな。自分に可能な目標を立ててそれを超えていく、小さな目標からのリハビリが必要だ。

自分を卑下して逃げるのは、もうやめようよ。自分で書いた台詞。きっと自分に言いたかった。ああ、もうやめたい。

完全に文字が出てこなくなった。自分は、自分の書くものを、記事といったり、詩と言ったり、ポエムと言ったり、文字と言ったりする。これも多分卑下の一環。もうやめよう。

明日は朝マックを食べよう。そうしよう。きーめた。多分楽しい一日になるぞー。朝マックが特別好きになったのは最果タヒさんのスキの因数分解のマックグリドルの記事を読んでから。最果タヒさんが好きななったのはきっと、スキの因数分解を読んだ後初めてマックグリドルを食べた時から。好きって感情は心の中とか言葉だけじゃなくて行動から作られる!そうだ、何を悩んでいたんだろう。行動は好きだって感情の表現じゃなくて、感情の一部だったんだ。三という数字を憶える為に指を三本立てるように、好きなものに会いに行くのは好きな気持ちそのものだったんだ。好きな気持ちを置いておくのは、内側だけじゃなくても良かったんだ。分からないと思うけどこれは僕にとって世紀の大発見です。長い間こびりついていた悩みが剥がれ落ちていく気分。やったね。

まだ3500文字、でもここまで書いたらやめられないよ。だってこの文章投稿したいじゃん。一万文字書いたらいろいろ分かったって言いたいじゃん。三千とか五千じゃあやっぱりパンチが弱いからこっから、一万文字まで積み上げてやんなきゃいけないな。

とは言ってもネタ切れ。と思ったけど一つだけまだ言いたい事がありました。

「昨日の自分より少し成長、それを繰り返すことが大切。」って最近言われた。昔にも同じ人に何度か同じことを言われているし、多分よく言われる言葉。昔聞いた時は、「その通りだ。昨日よりも一つでも賢くなって明日に。」って息巻いてた。でも、その時は、なんとなく、そんな強い感情ではなく。「なんか違うくね」って思った。昨日の僕には昨日の僕の良いところがあるし、明日の僕には明日の僕に出来る事がある。そんな、毎日何かを積み上げてどこかへ向かう為に僕らは生きてたんだっけ?って思った。もちろん成長は素晴らしいし、大切にしていきたい。成長って過去の自分と比べてここがこうなったとか言える物だっけ。一時期の僕は成長がとまれば人は死ぬ。とまで考えてた。そんなわけないわな。死なんよ。成長しない日々が続いても、ちょっと苦しいくらいで死んだりはしないし。また気が向いたときに成長し始めてる。とか思ってた。成長と向き合う事から逃げているのだろうか。と多分違うと思うな。成長が大切だとは今でも思ってる。自己研鑽こそが人生の喜びの一つだとも思ってる。でもそれってなんか誰かに言われて義務的に、「昨日の自分より一歩成長、それを人生に与えるノルマとする。」みたいな楽しくなさそうな、いやちょっとそれはそれで楽しそうなんだけどとにかく、そんな厳しいもんだっけ。なんか、「昨日より俺成長したんじゃね、スゲーじゃん。もちろん昨日の俺もなかなかやるやつだと思うけどね」みたいな、ハッピーな営みでは?

不幸の事をアンハッピーって言うと、それだけでなんか言葉の響きが楽しくなるよ。

正真正銘すっからかん。こっからが勝負?アイス休憩一回挟むか?わさビーフ休憩挟むか?今日はスーパーに言ったときにお酒を買うか迷って迷って、お酒買うならアイスとわさビーフがセットだよなって思って結局アイスとわさビーフだけ買ってきました。せっかく買ったんだから最高においしく感じるであろう時に食べたいと思うのが人情というものでして、今は残念ながらその時ではないですね。

お菓子は、凄くおいしいですが中毒性がまあまああって、しかも慣れたりするものだと思います。初めてブラックサンダーを食べた時の感動はそれはもう衝撃で、きっと人生最大級の衝撃でした。僕はブラックサンダーが好きで、ブラックサンダーが好きな人って結構一杯いると思うんですけど、その中でも「一番ブラックサンダーに感動した人」と自負しているくらいです。「一番ブラックサンダーが好きだ。」と言わないのは、それとは感覚が違うからで、初めてブラックサンダーを食べた時の僕はきっとその瞬間は世界一ブラックサンダーが好きだったんでしょうけど、たくさん食べるうちに、食べすぎるうちに、もの欲しそう自分の食べているブラックサンダーを見つめる僕を見かねた姉に半分分けてもらったり、高校受験の時に試験会場にブラックサンダーを五個持って行って全教科の前に食べたり、修学旅行のお土産に買ってきた白いブラックサンダーをどうしても人に渡したくなくなって二箱全部自分で食べたり、しているうちにやっぱり少し慣れてきてしまって。はじめの頃の感動を感じられなくなってしまって。それが少し嫌で僕は、自分を追い込んで追い込んで追い込んで追い込んでそれから、お菓子を食べたいななんて思いますね。

という事でとりあえず紅茶だけでも飲もうかな。なんて思います。紅茶を入れました。

かれこれ、二時間書いてます。言葉を選ばず、出来るだけ漏らさず書いてきたつもりですけどそれでもまだ、五千時と少しにしかならない。いったん初めから読み返してみて、言い逃してることないかな、掴み損ねているものないかなって、確認してみます。そういえば年賀状、1月1日にきっと家にいないから届いた瞬間に立ち会えないな。親元を離れて初めての年賀状だから楽しみにしてたんだけど、それだけが残念だな。別でもっと楽しみなことがあるから、仕方ないとは思うんだけど。

読んできた。いろいろ書いたなって思って、誤字を少し直して、そんだけでした。自分の書く文章には何種類かの型があったりして、要所要所で発揮されてるなと思ったりする。まぎれもなくあの文章の真似だと自分で気づけるものや、自分でももう意識せずに使っている物があるけれど、大げさに言うとこれが生きてるって事なのかな。人をマネすることは、絶対に良い事だけど一線を越えると急に非難の対象になる。結構怖い。自分が、自分独自の書き方が出来ているか、これは自分の中にあるものなのか、引用か、参考か、引用も参考もどこを参考にし、引用部分から何を見出すのか、そんな点で自分の文章になっているのか。そんなことを心配する。参考文献がちゃんと乗っている本は、良い本だと教えてもらったし、伊坂幸太郎先生は小説なのに最後に参考文献を載せているから好きだという人も多いのかもしれない。

小説を読むという行為に関して。大学に入ってはじめ「伊坂幸太郎が好きだ」といった時に、「伊坂幸太郎はみんな好きだよね」と言われた。私も好きだよではなくみんな好きだと言った。彼女は一人で考えている事を不安に思うたちの様で、同じことを考えている人がいると嬉しい。だからきっと何の気になしに、趣味を肯定する気持ちで、みんな好きだと言った。僕は、酷く傷ついた。それは運動会でもらった賞状がみんながもらえる種類のものだと分かったときのがっかりした気分に似ていると思う。とにかく僕は、落ち込んだ。ここでは、この人にとっては、僕はその他大勢でしかいられないんだ。と思った。それからかなりほんの読み方が変わったのは言うまでもなく、大学時代の僕は、より特徴的な、より過激な、人によって面白がり方が変わる様な作品を好んだ。そのおかげで、舞城王太郎に出会い、小林泰三を感じる事が出来た。それから結局伊坂幸太郎は好きで、読み続けてしまった。何か衝撃的な出来事で新しい自分と出会った時、人は変わるのではなく分裂するのかもしれない。

プレゼントを買いに行くのは多分一人の方が良い。プレゼントを渡すのはごくごく当たり前に、利己的な行為だと感じている。だから、プレゼントを選ぶのについてきてもらったときに、半額出すと言い、あまつさえ「選んでくれた」と言った彼は得体のしれないものに見えた。僕の為の僕のプレゼントに、ついてきてもらった、だけなのに、その想いは彼には通用しなかった。そして、利己的な行為に他人を付き合わすのはやめようと決心した。ごめんね。

鶏肉を食べていればそれで問題なく健康でいられるのだろうか。それが最近の不安で、豚肉を買おうと思うのだけれど、鶏肉の方が明らかに安く、悩ましい。

大前提として食事は、生きていくのに必要だからしている、その前提がないのならきっと、僕はほとんど食事をしないだろう。その上で、どうせ食べなきゃいけないなら、ある程度美味なものを食べたいと思う。それは、少しでも寝心地に良いベッドで寝たいとか、綺麗なトイレで用を足したいと言った感情に似ている。必要とあらば、作業的に食事を済ますし、健康や節約の為なら食事の喜びを多少損ねても問題ない。心の健康に関して、あれやこれやとアドバイスをしている人がいるが、あくまで参考だと捉えないと心が持たない。楽しい食事を、充実した食事を、人間的な食事をと言われていちいち傷ついていていられないと思うし、その言葉で救われた人もいるのだという事は容易に想像がつく。だから僕もためらわず、僕の人生を良くした方法を発信してもいいのかななんて、言い訳じみてる?そんなことないよね。

今日、覚えた技。文末で少し自分の事を批判して見せて、さらにそれを否定して自分を守る。少し狡い気もするけれど、自分を批判して卑下して終わるよりは随分健全だ。

紅茶を飲みほした、僕はあまり我慢がきくタイプではない。目の前に食べ物があれば、食べつくすし、飲み物があれば食べつくす、Twitterで文字が流れてきたら一つ一つに心を向けるし、ほっとくといつまでだってYouTubeで動画をむさぼる。人は元来そうらしい、食べれるときに食べ、低い確率で起こる事には挑戦するように出来ているらしい。その方が生き残り易かったから。それを生きながら自分を文化に浸して訓練をして、自己を作り替えていく。僕は少し、我慢の練習をさぼったみたいだ。今からでも遅くないかな。

これはノートである、から何を書いても良い。そんな意味で、「note」は出来たのだろうという事に今更気づく。ノートだから、メモを取っても良いし、学んだことをまとめても良いし、想いを書き連ねてもいいし、きちんとした作品を作っても良い。よくできた媒体だなほんとに。僕はnoteに救われている、かどうかは分からないけれど、ある程度人生を変えられている。

僕が文字を始めて書いたのは、Twitterだった。もちろん、その前から国語の授業で作文を書いたり、物語を作ったりしたことはあったし、提出するためのレポートもそれなりに書いていただろう。しかし、あたまの中でぐるぐると考えている事を文字にして吐き出して残すという事し始めた、そんなことが出来るという事を知ったのは、Twitterを使い始めてからだった。今の僕友人は、きっとTwitterに痛々しい事を書き始めた後の僕しか知らないし、今では、Twitterを使わない自分がどんなだったかあまり思い出せないけれど、確かに何も書いたりしていない時期の方が人生の中では圧倒的に長いのだ。少し違和感を感じる。

いろいろ書くうちに、きっと性格はかなり変わった。もともと持っている願望と現実が溶け合い始めたと言っても良いかもしれない。きっと僕はずっと痛々しく気持ち悪く生きていきたかったけれど、本音はかくすべきだという事を小2の時に、空気は読むべきだという事を中2の時に学び、何かを表現するのが下手だった。今でも、会話でもって想いを表現するのは、得意ではなくて、相手が求めている言葉を勝手に予想して嘘をつき、外したと分かった本音を言っておけば良かったと後悔することもよくあります。でもあらかじめ、Twitterやnoteで、自分はこんな人間だよ、自分はこんな事考えているよ、って発表しておくことで、普段の表現が随分と楽になった。手紙でもその効果は同じなのかもしれないね。

読みたいときに読めるし究極読まなくても良いのが手紙の良い所で、「続きは読まないでね」なんて書くことで罪を半分相手になすりつけたりも出来る。読まないでって言われて、読まない人なんているはずもないのに、その言葉をつける事で許された気になって書きたい事が書けるのはなんで?君が決めた世界の理なのかな。

昔は、手紙で告白したりするのなんか意味わからないって思っていた。今でも、そりゃ直接行った方が声とか表情とかで伝わるものもあるし、ちゃんと相手が告白を聞く状態の時に伝えることが出来るし、良いことは沢山あって、告白は口頭でするほうが良いかなって思う。だけど、中学生の頃は、そんなんじゃなく、本気で、直接行ったほうが早いし、正確に伝わるし、手紙に書く意味が分からん、と思ってた。あの時の俺へ、どうせ口頭でろくに伝えられないくせにさっさと認めて楽になりなよ、と言いたい。

あと千五百文字、もう今日は寝てしまって、休憩して明日書きなよ、って思ったりもするけれど、きっとある程度一気に書いてしまわないと意味がない気がするから頑張るよ。

廃棄弁当を食べたいと、昔から思っている。ごみを食べて生きていけるなら僕は世界に何ももたらさなくても許されるんじゃないかと思う。そんなことを考える人間です、僕は。いつでもある程度諦めながらある程度許される方法を探している。そこにこだわりやプライドなんて存在しなくって、そこは自分の中の割と嫌いなところ。

最近は、自分の嫌いなところを割と臆せずに嫌いだと言えるようになってきた。恋人の嫌いなところを認識する事で恋人を愛している事が嘘になる訳ではないように、自分の事が好きなまま自分の欠点を嫌いになっても良いと気が付いたからかな。

言葉はとても難しく、ただ自分の嫌なところ=欠点と言い換えただけなのに、それは本当に欠点なのかと詮索が始まる。自分の中にある間、言葉は不正確で良いはずなのに、無遠慮にも僕の思考に立ち入ってくる。何様のつもりだ。むかつく。言葉風情が、僕の役に立つからと使ってやっていたら図に乗って、僕を変化させようとしてきやがる。僕を変化させて良いのは、僕自身か、僕の大切な人だけだ。

言葉に対しては、二つの立場の取り方がある。一つは今みたいに、便利だから使ってやってるって立場、もう一つは使わせていただいてるって立場。僕はどちらかというと前者の立場をとることが多く、どちらが間違っているとかは決してないけれど、後者の考えは危険、というか大変だなと思う。使わせていただいてる、とへりくだる立場をとると、とにかく失礼に当たらないように、正しく言葉を使いこなさなければと思う。使いこなしたいではなく、使いこなさなければと思うだろう。それはきっとしんどい。ともすれば言葉を使いたくなくなる。

そしてもう一つ。言葉の方は決して使っていただいているとは思っていない。正直、向こうが使っていただいているというスタンスで来るのならば、こちらもある程度、使わせていただきますと丁寧な対応が出来るだろう。しかし、言葉は端から人間を見下している。あるいは、見た目だけは腰が低いように取り繕っているかもしれないが、腹の中では、利用してやろうと思っているに違いない。そんな相手に、へりくだる必要はない。気を抜いたら、取って食われるぞ。気をつけろ。

あと少しなのだけれど、あと少しだからこそ、手が止まってしまう。こんな時、パソコンで書いている場合でも、比喩的に筆が止まると表現しても良いのだろうか。タイピングの手が止まると書くより、やっぱり筆がと書いたほうがしまりが良い。

バターを買ってくるのを忘れた。明日必ず買ってくる。

冬が来る前に筋肉をつけて、寒さに対抗しようと思ったけれども間に合わなかったようだ。来年の夏の熱中症対策には間に合うように頑張ろう。

エンドレスに、一曲を流し続けてやっとその曲の理解が始まる。理解しないと楽しめない曲はそれなりに、大きな楽しさをもたらしてくれる。

何か出ないかと期待して書く。短文を続ければ、いつか名文が生まれるかもしれない。

四時間書いてきて最後にふさわしい話題って何だろうか。今まで書いてきた中には、最後にしても問題ない話もたくさんあったかもしれないと思うのはこれは僕の個性なのでしょうか。いつも、感情が芽生えた時、この感情が自分だけの物か確認したくなる。人と一緒がどこまでも嫌で人と比べなきゃ価値を認識できない悲しい僕の性です。

僕は割と、自分が逃げているかどうかにこだわる。でも前に進むのも後ろに戻るのも、どちらも逃げだ感じる事ばかりだ。ペースをどうしようもなく上げて後でしんどくなってペースを落とすのも逃げだし、今しんどくてペースを落とすのも逃げだ。実際は今出すべき力を出してペースを維持し続ける事こそが戦いなのだろうが、そんなことは知らんと言いたくなる時がずっとある。ここで終わるべきではないのは分かる。分かるけれど続けて何が起きる?同じことの繰り返しだろ。繰り返しにこそ本音は宿るのかもしれないけれど、信じらんない。

続く。

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