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近頃はメンタルファットが多い。【特別寄稿/僕の意見③】

■状況を変えたいなら行動

ゴールデンウィーク明けから、マスクの着用が個人の判断にゆだねられることになりました。

私はほとんどを外して過ごしています。もともとマスクの着用は法律で定められた義務ではありません。個人の判断で決めることでした。もちろん正体不明のウイルスのため、議会での着用ルールなど時と場所によって暗黙知が存在していました。

現在、日常を見渡すと、例えば電車では半々でマスクを着けたり着けなかったりする状況です。マスクの着用については少しの間議論が交わされることになるでしょう。

3年間マスクを着けて学校に行くこと、給食を黙食すること、友だちとコミュニケーションをとることしか知らない子どもが大勢いるからです。その慣習を解くのは骨を折る作業になることは間違いありません。

特に人目を気にする、またルールに縛られる傾向がある日本人は人口の半数以上が外す、またマスクの着用が少なくなったという報道を目にしない限り、安心して外す選択をしないように思います。

対象を子どもに限定すると、個人的にはこの状況を逆手にすることができると考えています。子どもに素のコミュニケーション、要はface to faceのコミュニケーションのすばらしさを伝えられる良い機会だと捉えています。

それはコミュニケーションは言語と非言語で成り立っていることを教えられるからです。

赤ん坊と親、日本人とドイツ人、男と女…姿形、言葉の異なる人間同士でもコミュニケーションはとることができます。大切なのは、「心と心を通い合わせる意志を抱くかどうか」です。

互いの気持ちです。もし通じ合わないのなら「心のあり方にトラブルを抱えているのだ」と思います。肌の色、性別、障がい、言葉…心に壁を作っているのは相手ではなく、間違いなく自分です。

サッカー界にはさまざまな課題がありますが、なかなか変わらないのも「相手のことを一度受け入れる」という気がないからです。

私からすると、面倒くさいからと掃除をせず、ゴミを溜め込み、整理整頓できない人と違いはありません。つまり、目の前の状況を整理できず、変えるべきものと変えてはいけないものの区別をつけられない人と同じです。

自分にとって「おかしい」と思う違和感のようなものは、自らの道理に外れた異物です。ただ自身の知識不足により、実はその異物が世間で当たり前のものとして存在することは数多くあります。

万物は流転します。だから、物事を決めつけすぎないことは生きる上で重要です。決めつけは自分を正当化し、正義に仕立て上げる悪性腫瘍になることが多々あります。その代表的な事例が「スポーツ界の暴言暴力」です。

心の異物を取り除かず、溜め込むと見通しのよかった目の前の世界がゴミだらけになります。人間はゴミだらけが当たり前になると見て見ぬふりができるようになります。

しかし、実際は見ぬふりをしているだけで、ゴミの存在は認識しているため、知らないふりをして心のカロリーを消費しています。そのため、少しずつストレスを蓄積しています。

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