見出し画像

主役になれる環境とは? 夢中になって自由に表現できる場所を作れているか?【筆者の思考整理帳14/僕の仮説55】

■二十数年前と今を比べて大差はない

選手が主役になれる環境とは?

みなさんはどう考えるだろうか。これに向き合うなら「何に対して主役なのか」から着眼点を持つ必要がある。サッカーなのか、プレーなのか。練習なのか、試合なのか。どの側面から見つめるのかで答えが随分違ってくる。

私は大学時代に地域のジュニアクラブで子どもの指導をしていた。低学年を教えた一年目は、子どもが適当にサッカーをしにやってきていたので何の問題も感じなかった。親も子どもが「サッカーをしたいのか」「運動するのが楽しいのか」程度に見ているだけなので、それぞれの立場に自由と表現が成り立っていた

しかし、翌年から4年生を受け持つことになり、最初にやったことがある。

それはお母さんに対する宣言だ。

「子どもが家でサッカーの準備を始めてから、帰宅後、自分たちが汚したものを洗濯機に入れるまで一切手出ししないでください。これが私からのお願いです」

二十数年前の出来事であることを前提に読んでもらえたら幸いだ。なぜ大学生の私が一番にこういう行動を取ったか? 答えは明確だった。それはクラブの代表から「あの学年をお願いしたいんだけど」と相談され、練習の様子を観察したときにお母さんが子どもの脱ぎ捨てたジャージをグラウンドから拾って畳んでいたからだ。

目にした瞬間、「子どもと親を離さなければ」と直感した。

私が小学校の頃に過ごしたサッカー少年団の監督は、「主体性を重んじる」恩師だった。怒鳴ることが当たり前の時代、罰走が当たり前の時代、私が所属した少年団は理不尽な指導とは無縁だった。厳しく叱られたことと言えば、礼儀など人間教育に関することだった。

何より脳裏に焼き付いているのは、親が叱られていることだ。その少年団では、サッカーに関わっている時間に親が子どもに手出し、口出しすると監督が注意し、その度が過ぎると親が横並びになって叱られていた。

「子どもがやりたくてグラウンドに来ているから、その最中に親が口出し、手出しはするな。子どもの邪魔をするな」

私たち選手は監督に守られていた。
親の介入、聖域の侵略を止めてくれた。

だから、サッカーをやっているときは自由に自分たちの思うとおり、考えたとおりにプレーができた。今の時代のようにサッカーの情報なんてほとんどない。監督が教えることは、毎回同じ。2人組で走りながらパスをすること、シュートを打つこと、1対1でゴールに向かい、ゴールを死守すること、2対2、そしてミニゲーム。

寝ても覚めても同じことばかり。
でも、退屈だと思ったことはない。

「基本が大事」だと口酸っぱく言われるだけで、私たちがやることに対して口出しされたことは一度だってなかった。サッカーには、自由と表現があった。仲間だから理解できる一人ひとりの長所をつなぎ合わせ、ゴールを目指し、支える人間、後ろでゴールを守る人間、自然にそれができあがっていった。さらに、試合を通して磨かれていった。

そんなジュニア期の経験があり、大学時代にクラブの代表に「小学4年生を任せたいんだけど」と問われたときに見た『サッカーをする上での選手と親の関係が異様』に映った。甘えとか、そういうものを越えて危機を感じた。

※ここから先は有料コンテンツになります

noteのシステム上、「定期購読マガジン」は契約開始月からの記事がお楽しみいただけます。それゆえ、それ以前の過去記事はご一読いただけない状態となっております。しかし、ジュニアサッカーマガジン「僕の仮説を公開します」では、2ヶ月連続でご契約いただいた方についてはメールアドレスをお教えいただけたら、過去記事を月末に1ヶ月分ずつメールでお届けするサービスを行っております。

ここから先は

2,388字

¥ 440

「僕の仮説を公開します」は2020年1月より有料になります。もし有益だと感じていただけたらサポートいただけますと幸いです。取材活動費をはじめ、企画実施費など大切に使わせていただきます。本当にありがとうございます。