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夏。
私の住むこの日本という国にはざっくりと言うと四季がある。
世界には年中夏、または二季と言う国も決して少なくはない。
ではお話を本題に戻すとして。
日本人にとって四季とはなにか?
なんと不思議な事に日本人にとってこの季節の移り変わりが心や精神や人生に大きな影響を及ぼすものなのだ。なんと恐ろしくも儚い。
人は春になると一歩進もうとする(芽吹きの季節だからだろうか?)夏になると恋人の居ない同士は惰算的にカップルと言うものを演じようとする。ほとんどと言っていいだろう夏の恋愛は『一夏の恋』となる。
そしてその恋の終わりを告げるかの様に秋が訪れる訳だ。郷愁などに使われるこの『愁』など漢字が成り立った時期の人々ですら秋には心を置き忘れてしまっている事を物語っているではないか。秋という季節になると物悲しくなるのは何故なのだろうか。これから訪れる冬を恐れるからだろうか?生物としての根幹的恐怖やマイナス的な感情の発生である。もしかするとそれはごく普通の事で言わば自然的な反射的感情なのかもしれない。
そして『冬』が訪れる。
過去の書物を読んでいると不思議な事にたどり着く。古今東西、どんな書物を読んでも冬と言う季節は『死の季節』『終わりの季節』に位置付けられている。
もちろんその死の季節を乗り越えて春の訪れを以って物語をハッピーエンドに締め括るお話もそう珍しくはない。
『冬越え』『越冬』これはやはりどの国でも物語でも重要なのである。ある程度の力を持ったものだけが冬を越し春の若葉を摘む事ができる。怠け者や力のない者は冬の寒さによって淘汰される。
そう考えてみるとこの四季を有する日本において一番厳しい時期は『冬』という事にはならないだろうか?
独りで冬を超えれる者(すでに超えた者)にこそ称賛の拍手を贈り讃えるべきなのではないでしょうか?
冬を超え、春の訪れをゆっくりと待つ事の出来る人こそ幸せは訪れて良いのではないか?
ここで言うところの冬というのは外気温的な自然現象に限らずである。
そんな事をぼんやりと考える私の耳には流し聞きをしていたテレビから『今年は猛暑になる。。。』というアナウンサーの声が聞こえてくる。私は笑ってしまった。
地球温暖化の昨今の事象としては『死の冬』より『殺人的猛暑』の方が問題であるらしい。かく言う私こそすでに冷房を入れている一人である。
ただ私が今思う事は、
瞼をゆっくりと閉じ各々の四季を思い浮かべるとそこには一人の女性のみが浮かぶのみなのだ。
笑顔と笑い声が浮かぶのみなのだ。
きっと今回こうやって文字を綴ろうと気が付くといつの間にか勝手に筆をとってしまった理由は大いにそれが関係しているのだろう。
何かしらの形で残しておきたかったのかもしれない。他者への問いかけでもなく決意表明でもない。愚痴?未練?全くとんでもない。
ただ今、この刹那的感情を書き留めておきたかったのである。
backnumberの曲ではないのだが私にとってはこの街は最近大変住みにくくなってしまおうとしている。そんな風に変貌をしようとしている、はたまたその様な変貌を起こしてしまうのではないか?という恐怖で胸の内はいっぱいである。
高き頂を目指し積み上げてきたいろいろな物が私からは見えぬ辺り、足下でカタカタと崩れ様としている気がするのだ。だがこの高さまで登ってきた私には視認出来ない様な気がする(きっとそれは癒着してしまった固定概念の様なものだと思う。つまり本気を出せば一段ずつ降りて行きちゃんと自分の手でその崩れかけた積み木を重ね直す事は可能なはずなのです)
さてさて話が脱線してしまった様に感じてしまいますね。
ただこの話をまとめるとすると一日、一日と勝手に進んでいくこの四季に私は着いていけず時間が止まってくれはしないだろうかと常に考えてしまう訳なのです。時よ止まれ。
今の私は先の事や、希望的観測的考えというものを考えられないのです。
『さよなら』と『行って参ります』
に終息したいものなのです。
夏の訪れをしらせるかの様な今日のこの青空を今はただ、じっと、ゆっくり眺めていたい。
空の青さを知る人よ。
か、まだ観ても読んでもいないな。
機会があれば是非観てみよう。
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