たとえば、疎になるということ。

この感染拡大期で大規模自然災害が起これば、医師や看護師が破局的に足りない状況となります。感染も広がり続ける事でしょう。歯止めが利かない。

だとすれば、大災害が起こる前提で私たちは行動せねばなりますまい。どうすればいいか。人間の生息密度を ”疎” にすること。つまり、今の ”密” による利便性をある程度捨てる覚悟で ”疎” の可能性に掛けてみるという事。

それができるか。やはり、”密” であることで安心を手放そうとしないのが現実。”安心”とは、滅多に助けてもらう機会はないけれど、軽微な案件でも助けてもらえる質の高さが約束されているということ。その要求に応えられているということ。”密” であることによる高い経済効果で「助けられる人」への報酬を捻出できるという事。

けれども、平時では「危急の時に助ける人」は 相対的に ”厳しい環境で働く” ことになるので就業者の割合が少ないのです。だが、それでは有事の際に「危急の時に助ける人」が圧倒的に足りなくなるのは自明の理。

全体の割合は ”疎” であっても変わらない。ならば、「助けられる人」の ”ライセンス” を変えればいい。トリアージごとにできるライセンスを増やす。「助けられる人」分子を増やすということ。

それは、「”密” による利便性」を捨てることに繋がります。軽微な案件の要求に対する「助ける質」は落ちてくる。ですが、破局的な「大量に助けられない人」を出すよりメリットがあるはず。

取得可能なライセンスを増やし、同時多発的に起こるであろう疫病や自然災害に対応できる「助けられる人」が平時でも増えるようにしなければ、手遅れになってしまいます。有事の役割分担をできるだけ多くの人が担えるようにするのです。

有事の現場では自律的に自身ができる役割を果たす。それが実行できるように災害訓練を増やす。その時間が取れるように官民一体となって支援する。それが、当たり前となる。そんな社会です。

私たちは「大自然と和解する事」が困難な生き物となってしまいました。ならば、むずかしい局面でも隣人を助けられる文明を築かなければなりますまい。”密” の利便性を見直し、適正な生存密度であたらしい助け合いを創り出す、それが、今なのだと思います。



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