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「女性を助けない運動」と反フェミニズムの分断

「女性を助けない運動」というものが何者かによって提唱され、ネット上に広がっているようです。またこれは反フェミニズムを二分する大激論になっていると聞きます。これについて私も一つ述べておきたいことがあります。

「AED冤罪への抗議」に留まらないその意義

この女性を助けない運動は、AED冤罪の話をもとに訴えられていることですが、その意義は冤罪への抗議のような些細なことにはとどまらないと、少なくとも私は思っていますし、またそのようなことにしてはいけないと思います。

この運動の真の意義は、今まで男性の生命や人権が(女性に対して相対的に)踏みにじられてきたことそのものに対する抗議なのです。その「お返し」として、あえて女性の生命を軽視する、そこにこそ意義があるのです。

例えばタイタニック号が沈む場合を考えてみよう。男女の場合、救命ボートで後回しにされるのは男性である。女性(と子供)が優先、男の方が先にボートに乗るなんてとんでもないという話だ。男性が女性を差し置いて先にボートに乗ろうとすれば、西洋社会では「男らしくない」、「男のくせに」と批判され、事実上、男性は女性より先にボートに乗ることができない。
これは、男性側が性役割として自発的に譲ったと見ることもできる。しかし、もしこれを黒人と白人の場合に置き換えて、黒人が白人にボートを譲るという場面を想定したらどうだろう。それは「学習された従属による、刷り込まれた人種差別」と見られるだろう。ではなぜ、男女の場合はそれが見過ごされてしまうのか?
あらゆる権利において、生きる権利(命)より優先されるものなどない。仮にどんなメリットが別に存在していても、命がまず一番優先される権利である。しかし男性は性役割においても、その命は女性より軽視されていたのである。これはタイタニック号という限定された状況だけでなく、戦争などにおいても同じである。

最近だと、大阪梅田で飛び降り自殺した男子高校生の巻き添えになって女子大生が死亡するという事件がありました。この件で女子大生を悼む声が多く上がる一方、飛び降り自殺した男子高校生にフォーカスする声は全く見かけません。またもし女子大生ではなく男性が巻き添えになって死亡していたとしたら、彼を悼む声は集まっていたでしょうか。

もう本当に、「よくぞ言ってくれた!」と言い出した人を称えたい。そもそもこのような運動を提唱することには相当な勇気がいるものです。女性の生命をあえて軽視するわけですから、フェミニズムを是とする非とする関係なしにすべての女性を敵に回すことになるのは当然のことでしょう。しかしそれくらいに女を憎めるからこそ叫べることなのかもしれません。つまり、この提唱者は確実に女に何かされた側であると考えられます。

この運動で顕在化する存在とは

この運動には、反フェミニズム(あるいは親マスキュリズム)の中で不賛同を表明している人も多いです。特に「フェミニズムが非婚化や少子化を推し進めた」「フェミニズムのせいで自分がモテなくなってしまった」という思想をある程度汲んでいるような人に顕著です。これに賛同するか否かで反フェミニズムを二分しているといってもいいかもしれません。この分断は、やがて次のような二つの勢力に収束するでしょう。

①「“反”モテ」。女に「かかわり」を持たれること自体を嫌悪する考え方です。この集団は明らかに「非モテ」とは区別されることになります。言うまでもないことですが、私もこの一人です。だからこそ、この運動には擁護ないし支持する価値があると考えるのです。

②「隠れチンポ騎士団」。本来「チンポ騎士団」とは、女に振り向いてもらうために、ほかの男をけなすような(特に非モテの)男、あるいは一般に「フェミニズムイデオロギーに感化されてしまった男性」を指しますが、この運動への反発から、反フェミニズム側の男を取り込んで彼らの動きがさらに活発になることは容易に想像できます。繰り返しますが、この運動は非モテ勢力には非常に評判が悪いです。すべての女性をあえて敵に回すやり方なのですから。すなわち、ほとんどの「非モテの反フェミニズム」は、恋愛や結婚にありつく(あるいは社会的に少子化を改善させる)ことが目的である以上、この側ということになります。

しかし、ここまでラディカルなことをやらなければ、誰も男性の生命や人権に目を向けるようなことはしないでしょう。久米泰介氏によれば、自分たちがモテなくなった、あるいは少子化を進めたという見地からのフェミニズム批判(以下の文中では「保守派」として扱われていますが)は、結局女のことしか考えず、必然的に女性の生命や権利を重視してしまい、結果的に男性の生命や権利は見過ごすということになってしまうそうです。

男性差別などなくすことはできないんだ、という声は所詮、男性差別を維持したい利益があるか、もしくは単なる諦観と反発だ。もっと言えば、ICMIでポール・イーラムが強く主張していたように、保守派(性役割保守派)というのはそもそも女性中心主義(ガイノセントリズム)である点ではフェミニズムと変わらず、本質的に女に甘く弱いため、永遠にフェミニズムと本気で戦わない。フェミニズムとジェンダーロール保守派は一見対立しているように見えて、どちらも実は女のことしか考えておらず、男性の人権は一切みないという点では一緒である。この自分が薄っすら感じていた点を男性権利運動のスピーチで堂々と言われてはっとした。やはりそう考えるのは自分だけでなくそもそもの原理なのだろう。そもそものジェンダーロール保守派(つまり既存の社会)が男性の人権は認めず、ただし女性は保護しようとする女性中心主義であったからこそ、逆説的であるがフェミニズムは早めに出てこれた。女性の人権侵害は許せないとフェミニズムも保守派も感じるからだ。男性の人権侵害(女性の利益との対立によるもの)に関してはフェミニズム及びフェミニズム系リベラルは男性を加害者階級としてみなしているから、認めないし、既存保守派は性役割の名の下に正当化しようとする。社会を維持するために男性は文句を言うな、男らしくあれ、または男女は違うから仕方がないんだと。これらが、男性が受けるダブルスタンダートな社会構造の原因である。

もっと「分断」せよ、そしてこれが「何のための運動か」に立ち返ろう

私はこの運動は、男性の人権が認められないことへのストライキ、いわば「逆セックスストライキ」であると位置づけているし、またそうであってほしいと願います。AEDがどうこうという話にとどまらず、男性の生命と人権に目を向けようという、メッセージ性を帯びた運動に将来的にはなるべきです。

だからこそ、「非モテの反フェミニズム勢力」によるこの運動への反発も大きくなり、彼らとの分断も深まることでしょう。この分断は、マスキュリズムにとっての「希望の分断」です。反フェミニズムの主流から自立するために、必要な分断です。決してネガティブにとらえるものではないと私は思っています。