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【深い社会】19 「立ち上がれ!社会科教師よ!」と言われて立ち上がれたか。

西田幾多郎の孫は、勤勉でおとなしい気質だったと、同級生が言っています。
軟式野球をやっていて、とても上手だったらしいです。

その名を上田薫と言います。

上田は祖父の跡を追って京都大学文学部哲学科に入ります。
ところが1944年大学一年で学徒出陣。
南京に送られ、高射砲士官見習いとして
ゲリラ戦を繰り広げる国民党軍と兵站分断を狙うアメリカ空軍と闘います。

たくさんの仲間を失いながら敗戦。
国民党軍の捕虜となり、日本に戻ってきたのは1946年。
東京は焼け野原でした。

幼い弟と病気の父を支えながら食うに困る生活の果てに、
運よく文部省に職を得ることができます。

当時の文部省にはアメリカから教育使節団がやってきていました。
戦争に向かわない国民教育を実現するために、
教育使節団、CIE(民間情報教育局)、そして日本の教育刷新委員会とで調整が行われました。
こうして、これまでの、修身・歴史・地理が統合され「社会科」となります。
道徳教育は社会科の持ち分となったのです。
道徳的判断は、公民教育の中で培っていくものとされました。

上田薫はこの社会科の小学校担当になります。
その後、指導要領試案作成、教科書作成に携わり、
新教科「社会科」についての講演で全国を飛び回りました。

上田薫の著作を読むとその時の熱が伝わってきます。
一部を引用します。


かつて明治維新が、東洋の一角に孤立していた鎖国日本を、世界史の舞台へと押し出したように、敗戦日本の大転換は、われわれ日本人の眼を、新たに世界へ向かって打ち出したということができよう。

もちろん維新前においても、西洋の文化が必ずしも日本人に絶縁されていなかったと同じように、日本が維新以後にたどった道は、決して極端な排他主義に終始したわけではない。

しかし、制度の上において人権が確立せられ、特に人々の現実的な生活の基盤そのものが新しく打ち立てられるという意味において、今回の新しい憲法の発布は、画期的な意義をもつものというべきであろう。


我々は、今自分たちの生活意識を、根底から立て直す必要がある。
しかも、それはなんぴとによってしいられるものでもなく、みずから考え、みずから選び取った道としてでなくてはならない。


かつて日本人は、公にこのような討議を開くことができなかった。
思うままに口を開くことができず、したがってまた語られる言葉に耳をかたむけることをしなかった。
しかし、われわれは今、新しき段の上に立っている。
そこでは、個人がはばかることなく個人の立場をつくし、堂々と自己の所信を披露することもできるであろう。
人々の前におのおの立場を示し、さまたげられることなくただしあうこともできるであろう。


新しい段は確固として築かれた。
しかしその上に横たわる多くの障害は、いかにして克服することができるのであろうか。
それらはおそらく、一朝にして克服されるような性質のものではないであろう。
そこには新しい日本人が生まれなばならない。
日本の土に根ざした、新しい芽が生まれねばならない。


新しき日本人を生み育てるために、あらたに打ち立てられた教育の方向は、今ようやくにして現実に根を下ろそうとしている。
そして、新しい教育の方向に、もっともいちじるしい特色を示すと考えられる社会科が、今まさに出発の門出に立っているのである。


上田薫「社会科とその出発 小学校社会科の研究」より

まさしく社会科の誕生を祝う、ろうろうとした宣言文です。
その後、
「新教科社会科を支えていくのは教師である。教師たちよ、立ち上がれ!」
と叱咤激励するのですが、
さて、教師たちは立ち上がったでしょうか。

これが、難しかった!

内外から様々な困難が降りかかってきます。

1 修身復活との戦い

子どもの生活から、道徳感は育たない。
教え込まねば、という攻撃はずっと続きました。
上田は「道徳教育のための手引書要綱」を書きます。
その中で、社会科で充分だ!特設の教科などいらぬ!と突き返しています。
その後、文部省をやめ、学者となりますが、
結局、古巣の文部省により、「道徳」は作られました。

2 コアカリキュラムとの戦い

イギリス・アメリカでは教科を超えるコアカリキュラムが流行し、日本にも入ってきます。
しかし、上田は普遍的な知識に至らぬ活動ははい回るだけである、と喝破しています。
残念ながら、ご存知の通り、生活科・総合化として、切り崩されました。

3 系統主義との戦い

冷戦下、スプートニクショックに始まる、教育の科学偏重の系統化が要求されました。
子どもの生活に根差すことのない系統主義は決してうまくいかない、と強く主張しますが、なによりマルクス主義に染まった教師たちに否定されます。

社会科誕生に立ち会った上田は、
次々とやってくる困難に打ち勝っていくために仲間を集めていきます。
それは次第に、教師たちの研究集団となっていきます。

たしかに、道徳・生活・総合・系統主義と負けは続きました。
それでも、社会科の設立本来の目的であった、
子供の生活から生み出される問題解決を大切にしようとする矜持は、
集団の中に生き続けました。

その研究集団こそが、「社会科初志をつらぬく会」です。

この会から、築地久子、有田和正、そして、向山洋一氏が輩出されていきます。

上田薫の主張は、NHKアーカイブで見ることができます。
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0001810425_00000

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