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【深い社会】06 救急車停めてアイスくっていいのかよ。

救急隊員が病院に患者を運び終えました。

「ふー、ちょっと休憩。」

ほっとして、消防署に帰る途中、コンビニでアイスを買います。
すると、それに気づいた通行人がとがめます。

「救急車停めてアイスくっていいのかよ。」

あわてて、救急隊員は署に戻りました。
結果的に、通行人の通報を受け、この救急隊員は訓告処分を受けます。

大阪市消防局の事例です。
この問題がSNS上で大炎上しました。
みなさんはどう思いますか。
救急隊員のアイス。許される?許されない?

さて、カントの気づいた構成主義にも未解決の問題がありました。
例えば、私とあなた。

カントの言っていることが正しければ、
私の感じる世界と、あなたの感じる世界。
認識しているのはそれぞれです。
一致することはありません。
でも、一致しなくていいのですか。
私の神様とあなたの神様それぞれでいいの?
私の教育観とあなたの教育観、バラバラのままでいいの?
私が体罰だめで、あなたは体罰OK。それで大丈夫?

さきほどの救急隊員のアイスで言えば、
「勤務中にアイスなんて許されない」認識と、
「忙しい救急隊員、アイスくらいいいじゃない」認識、
一致しなくていいのでしょうか。

これに、答えを出したのがヘーゲルです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

「私がいる。
私たちは、普段生活していて、「私、私・・・」て思ってないでしょ。」

「私が私を自覚するとき、それはあなたがいる時。
つまり、あなたがいなきゃ、私は私を自覚しないんだよ。」

「本質的な『私』は、あなたがいるから存在する。」

このように、周りを取り込んだ「私」の意識を、ヘーゲルは「精神」と呼びました。
まとめあげたのが「精神現象学」という本です。

これが、またチョー難解!

ヘーゲル「私と言う存在は、周りの人がいるから、自覚できる。
人間は、いつも周りと関わり合って自分を自覚したいと思っている。」

「親子もそう。
兄弟もそう。
友人もそう。
夫婦もそう。」

「おたがい相互に承認し合いたいと思っている。これが『愛』だぜ。」

はー。そんなもんですかね。

ヘーゲル「私が自分の認識を省みるとき。それは他の認識に気づいたとき。
そんなとき、自分の中でモヤモヤが起きて・・・ひらめいた!
新しい自分の認識に気づくんだ。すごいよな。」

これは、わかります。
「救急隊員がアイスをたべてもいいじゃない。」と思う自分の認識には、
「アイスだめ!」という人がいなきゃ、気づけませんでした。

ヘーゲル「人は大なり小なりそういうひらめきがある。
このひらめきから生活習慣やルール・モラルが生まれるんだ。」

なるほどーこうしてみると、
「仕事に差し支えなければアイス食べてもいい」
という新しいルール・マナーに気づけました。
気づきをくれた、通行人ありがとう。

ヘーゲル「そして、そのひらめきの行きつく先が・・・
学問!国家!世界!!」

ちょっとまってーー!
飛躍しすぎだろー。

ヘーゲルはこの原理、「アイス食べてもいい」をテーゼ、
「アイス食べちゃダメ」をアンチテーゼ、
「仕事に差し支えなきゃ食べてもいい」をジンテーゼとしました。
ヘーゲル弁証法の誕生です。

私たちは人それぞれ。認識もそれぞれ。
そんな中、意見を交わしお互いを承認しようと努力する時、
あたらしい認識が生まれます。

どんな感想を持ちましたか。
なるほどなーと思いましたか。
でも、この考えには目の前に落とし穴があるかもしれませんよ。

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