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【深い社会】17 中締め。私は一体どのような学びを求めているのか。

今回のセミナーを企画するきっかけの一つが石坂陽氏の実践の分析です。
石坂氏は2019年―2020年に5年生の社会科実践について紹介しています。
これまでの一連の情報発信はその続きといってよいです。
この内容については、別SNSでの発信なので差し控えます。
(セミナー参加者には公開いたします。)

その中で、私は石坂実践を分析するのですが、
石坂実践への評価はできませんでした。
評価するためには膨大な読書が必要だったのです。

読書をしても、明確な答えは出なかったのですが、いくつか留意したい問いがありますので記録したいと思います。

1 石坂実践はすばらしいが、『価値判断』なのか。

「情報と運輸を比較し、その価値を検討する」ことが子どもたちのアクティブラーニングを作ったという事実は確かな証拠だと思います。
ただし、それが価値判断なのか、という点については疑義を呈したいと思います。

まず、何より石坂氏自身が価値を判断させようとしていません。
情報と運輸を比較することでそれぞれがもつ事実・特性を認識させています。
これは、デューイ・キルパトリック、そして宇佐美寛氏の著作からも、事実に対する分析と比較の結果、つまり事実判断であると言えます。

逆に言うと、私たちはこれらの実践を「価値判断」を呼んだ瞬間に、そこにバイアスがかかり、本当の石坂実践の価値を見落とす可能性があるのです。

2 それでも「価値判断なるもの」が子どもの思考をアクティブにする事実をどう認めるか。

価値判断は、価値判断ではないとして、宇佐美氏はモラルジレンマを批判したのですが、
それでもモラルジレンマが授業として盛り上がることは事実なのです。

同様に宇佐美氏は、モラルジレンマの延長としてサンデル教授の実践も批判しています。
しかし、社会に大きな波紋を投げかけた事実は否定できません。

なぜ、事実を無視した「価値判断なるもの」が、人を能動的にするのか。
これは現場にいる人間の実感レベルでしかないので、研究者にこそ分析してほしいと思います。

ただ、あくまで仮説ですが、
事実から切り離し、記号化するからこそ、子どもの思考の自由さが確保されるのではないか、ということをここに記録しておきます。

さて、宇佐美氏に批判されたサンデル氏の授業ですが、
そもそも、学問としての背景が日本と違う、ということは押さえておかなければならないと思います。

アメリカの社会問題として、国是としての「自由」の在り方の問題があります。
建国から今日までの様々な政治的判断が、この自由の問題と深く絡み合っています。

アメリカの保守・革新の定義は、日本とは全く違います。

自由と言えば、革新を司る民主党ですが、もともとは南部を拠点とする保守政党であったことはあまり知られていません。
南北戦争で敗北し、少数派となった後、マイノリティを吸収していって、結果、現在の左派よりの形となりました。
BLM問題のようにマイノリティの危機に敏感に反応して立ち上がります。

対して、保守を司る共和党は、じつは自由主義です。
厳密には、政治体制を超えてしまう個としての自由主義です。

われわれは個の自由権を獲得するために銃を持ち、血を流し、建国した。
その精神を否定するものは、例え、政府であっても、再び銃を持ち打倒する権利がある。

彼らは個人の自由権が危機に瀕すると、立ち上がります。
トランプ氏が大統領選で敗北したとき、一部の共和党員が、連邦議会を襲撃した根拠はここにあります。

このように同じ自由主義でも歴史的背景や、世界情勢、人間関係で、複雑に政治的判断が変化します。

そこで、哲学者・政治学者であるサンデル氏は、人々の判断がどのような事実に基づいているかを明確にするために、モラルジレンマの手法をとっています。

葛藤する問いを出すことで、人々は立ち止まり考えます。
判断の根拠となる様々な事実に目を向けます。
事実に目を向けると自分が大事にしている自由主義の特性が見えてきます。
足りないところに気付きます。
気付けば人はそれを自然に解決しようとします。
そこには個人の自由を中心に据えながらも、他人や共同体を意識した緩やかな自由主義が生まれています。
これを共同体主義と言います。これがサンデル氏の主張です。

つまり、サンデル氏も宇佐美氏も、求めているところは同じなのです。

では、同じであるのにも関わらず、なぜ、モラルジレンマ授業は宇佐美氏の期待に応えられないのでしょうか。

それは、教科設計としての「時間」にあります。
道徳は、戦前の修身「徳目主義」から授業方法を受け取り、一授業一徳目で展開されます。
45分で資料を読み、その場で、考えるべき価値を掴み、子どもは判断しなくてはいけません。
宇佐見氏の言う「事実判断」を重視するには、この45分ではとても時間が足りません。
まさしく、ブラック企業、ブラック学校、ならぬブラック教科です。

ちなみにサンデル氏は大学が主戦場です。
学生たちはそれぞれ課題に出された著作をあらかじめ読んでおき、事前に事実認識を高めた上で授業に臨みます。
これを小学校に注入するのには無理があるのです。

それこそ、事実を検証するためには、「単元」として時間を確保し、充分な時間を子どもに与える必要があります。
時間が確保されれば、私たち教師は、一つひとつの事実を子どもと一緒に調べることができます。
調べたことを整理し、分析して認識を高めることができます。
そして、その上で、認識したことを比較して、自らの判断に生かすことができるのです。

あれ、待てよ。

社会科じゃないか!

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