鎌倉殿の13人 第42回「夢のゆくえ」

まえがき

 騙し討ちのような形で和田義盛が討ち取られたことにより、実朝と義時の間には深い亀裂が入ることになりました。脅威となる御家人がいなくなった事で、義時は鎌倉殿を凌ぐ権力を得ましたが、実朝は義時に対して鎌倉を源氏に取り戻すと宣言、思案を募らせました。

 …と、大まかな前回までの流れを書きましたが、今後最大のクライマックスである承久の乱に向け新解釈を取り入れた脚本になっているようで、気になる点を中心に書いてみたいと思います。

※思った以上に長文になってしまいました。文面がおかしかったり、認識や事実など間違っている箇所があるかもしれませんがご容赦ください

覚醒した?実朝

 前回までは、自分が未熟であると自覚していたがゆえに政については義時ら鎌倉の宿老に頼るというスタンスでしたが、そのために実朝ですら義時を抑制出来なくなり、結果信頼を置いていた和田一族が討ち取られてしまいました。
 前回も少し書きましたが、実際は実朝と和田義盛については主従関係という立場はあれ、特に実朝が義盛をとても気に入っていたという点については誇張されているのではないかと思われます。

 上記の通り、実際の実朝と義時の関係については亀裂しておらず、義時に至っては、実朝に対して思う所はあったかもしれませんが一応は鎌倉殿として顔を立てていたはずで、和田合戦における「騙し討ち」については視聴者に義時は悪人というイメージを植え付けるための創作演出であると考えています(義時の涙を見る限り、本当の自分を徹底的に隠し、妬みや恨みを全て自分に向けるよう演じていると考えています)

 話しは戻り、実朝は敵対している義時の息子の泰時を側近に迎え、政に乗り出すことにしました(実朝は気持ちを泰時には明かせずにいましたが、信頼されていると感じた泰時は受け入れたのでした)
 しかし、二人は政の経験が浅いために結果的に御家人の不興を買ってしまう事となり、義時に一喝されるという場面がありましたが、実際の体制としては実朝の後ろには政子がおり、実質の権力者として存在していました
(竹御所を実朝の猶子としたり、公暁を鶴岡八幡宮の別当に据えたのは政子の指示によるものでした)
 ですので流石の義時も、面と向かって怒りを露わにすることなどは出来なかったはずです
(義時と政子の関係についてはドラマと違って良好でしたので、実際の実朝は孤立していたのではないかと考えています)

 ある日、京より源仲章が陳和卿という宋の僧侶を引き連れてきました
(となっていますが、実際陳和卿は単独で御所に訪れています)
 陳和卿は実朝が宋の長老の生まれ変わりで、自分はその弟子の生まれ変わりだと話しました。実朝はこの話が数年前に見た夢と一致していると驚き、陳和卿を信頼しますが、実は源仲章が密かに実朝の夢日記を覗いており、後鳥羽上皇の策略という形に仕立て上げられていました。
(ここらへんの事実と創作のかけ合わせ方は凄く絶妙ですね…)

 実際の実朝は、この陳和卿との一件以降、宋人の生まれ変わりであると信じこみ、終いには渡宋するべく船を作るよう陳和卿に命じました。
(義時はあまりにも無謀な行いだと実朝を諌めますが、信じ込んでいる実朝は取り付く島もありませんでした)

宋船の建造

 義時は建造を中止させるために政子を引っ張り出しましたが、皆が集まった場面では政子は結論が出せず、その後大江広元から背中を押され実朝の応援に回ると決断しました(義時と対立する方向に持っていく為に、大江広元とのロマンスを盛り込んだのでしょうか…)
 宋船建造時(1216年頃)で政子60歳、広元69歳という年齢になっており、見た目と年齢にギャップが出てきているような気が…

 政子の決断によって船の建造は継続される事となりましたが、義時は密かに時房を使い建造中の設計図に何かを書き込ませてました
(ただし、義時が時房とトウに指示を出した場面が無く、義時による指示だったのか、誰かの入れ知恵があったのかまでは分かりませんでした。いつもであれば義村が提案していたかもしれませんが、場面自体を飛ばしたのは何らかの意図があるのかもしれないですね)
 それにしても、設計図がいきなり書き換えられていたとしたら、流石に完成までの間に誰かが気づくような気もしますが(というか設計した陳和卿が完成するまで現場を確認しなかったのでしょうか…)まぁ結果的に色んな偶然が重なって誰も気づけなかったという事にしておきます

浮かばなかった船

 実朝は船が完成したら自分も宋に行ってみたいという夢を泰時や千世に語っていましたが、恐らく船が進水出来たとしても政子あたりに止められていたと思われます。
 工事自体は順調に進み、進水式当日を迎えました。
しかし船を海に運ぼうとした所で重すぎて砂浜から動かせない状況となりました。このタイミングでようやく陳和卿が設計図の値が間違っている事に気づきましたが後の祭り、何人もの御家人が引っ張ろうともびくともせず、船はそのまま打ち捨てられることとなります。

 船が進水出来なかった原因については、由比ヶ浜が遠浅であるために船に必要な深さが得られず沖に出られなかったとか、陳和卿自身が船の設計に詳しくなかったなどの説がありますが、今回の義時が設計図の改変を企んだ事については、実際の義時も船の建造に反対をしていましたし、設計図の改変に限らず、別の妨害工作をしていた可能性などしていたかもしれません。

 建造中、八田知家は船が完成したら隠居すると三善康信に話し、見た目は若く見えるが実は三善とそう変わらない事を告白していました
(顔だけだったら可能性もあるかもしれませんが、体に関してはどう見ても40代くらいの若々しい肉体にしか見えず…)
今後は登場しない感じのようですが、一応承久の乱の頃までは名前が見られるらしいので、可能性は残しておきたいです…

実朝の終わりの始まり

 船の進水に失敗したことで実朝は落ち込みますが、ここぞとばかり政子が新たな献策をしました。これは、実朝が鎌倉殿を譲り、自身は隠居して大御所となること。跡継ぎとなる次の鎌倉殿は源氏の中からではなく天皇家から迎えるという事だったため、義時は反論しますが泰時も実朝側についたため形勢は不利な状況となりました。

 この場面については、事実である部分と創作を織り交ぜているために、今後どのような経過をたどっていくのか予想し辛いですが、少し状況を整理してみると
 ・実朝が隠居して大御所となり、新しい鎌倉殿を天皇家から迎えると宣言したことについて、実際は実朝が病弱な上に子供が出来ない事を憂慮した政子が熊野に参詣した後、京に立ち寄った際に藤原兼子と会談を重ね、後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に迎える方向で調整しており、政子が主導して話を進めていた事は間違いなく、実朝自身は官位を上げるべく何度も上皇に願い出ていましたので隠居する事など考えてもいなかったと思われます。

 ・義時が実朝と政子の策に反対し、息子の泰時が実朝側についたという事について、まず義時としては天皇家から養子を迎える事について反対はしていなかった(というか実朝自身も後継ぎは源氏でなくても良いと思っていたらしい)大御所になるという話については創作であるため省きますが、実朝の昇進が異常に早すぎる点については広元と共に憂慮しており、諌めたものの聞く耳を持たない状況でした。

 物語としては結果的に義時対政子の構図が生まれ、このまま実朝に実権を握られてしまってはまずいと義時も焦りの顔が出ていました…そんなゴタゴタの最中、公暁が鎌倉に戻って来ました。次回予告では自分が次の鎌倉殿だと義村相手に密談していましたので、更に不穏な空気が漂いそうです。

穏やかに暮らす時政パパ

 牧氏の変後に追放となった時政について、もはや登場することは無いと思っていましたが、穏やかに暮らしている様子が描かれておりました。既にりくから見放されて寂しい余生を送っているかと思いきや、身の回りの世話をしてくれる女性もいたりと、良かったと思わせる登場だったと思います。

 りくですが、実際は時政が亡くなってから京にいる娘夫妻に身を寄せたとなっています。今回登場しなかった事に何らかの意味があるのかは分かりませんが、いずれ再登場することになるだろうと思っています。