鎌倉殿の13人 第41回「義盛、お前に罪はない」

まえがき

 前回、実朝と政子のとりなしによって一度は戦が回避されましたが、和田側の勘違いにより結局戦は避けられない状況となってしまいました。
 結末は分かっているとはいえ、いくつかの点において事前に知っていた内容と違う部分も見受けられましたので、気になったところを書いていこうと思います。

時すでに遅し

 場面は和田義盛が館に戻った後(実朝との双六をしばし楽しんだ後だと思います)息子達から既に武者達が戦に向かっており、既に引き返す事も難しい状況となっていました。
 義盛は義時との戦はしないと実朝に誓っていたために当初は難色を示しましたが、あくまで討伐の相手は義時で実朝には一切手を出すなと指示し戦を決心しました。

 本作では、実朝が義盛をいたく気に入っており何度も和田邸に通っていたような場面が描かれておりましたが、実際はそこまで親しい訳でもなく、義盛も気軽に「羽林」と呼ぶような関係性では有りませんでした
(以前に上総広常が頼朝に武衛と呼んでいた事と掛けて、義盛を典型的な坂東武者であるよう印象付けようとしたのかもしれません)

 史料における実朝は義盛が戦の準備をしていると聞き及び、義盛の元に人を送って問いただそうとはしましたが、既に意を決していたために結局覆す事は出来ませんでした(合戦のキッカケとなった泉親衡の乱においても実朝に替えて頼家遺児を鎌倉殿に据えようとしていた事からも忠臣とは言えるような感じでは無かったと思っています)

義村の判断は

 義時と戦う事を決めた義盛は、三浦義村に戦の最中に裏切られては困るので裏切るなら今すぐにしろと促しました。
 義村は起請文まで書かされていたので(しかも灰にして飲んでいる)どうやって解消するのかと思ったんですが、八田の提案で飲んだものを吐き出すという荒業で何とか乗り切った?のでした。
(起請文は約束を違えた場合に自身に災いが降りかかるというおまじないのようなものなので、現代の人から見ればそんな事をしても滑稽に見えると思いますが、当時の人々は祈祷や呪いを信じていたでしょうから、本気で必死だったのではないかと思います)
 ただしこの場面、三浦胤義は義村の弟ですからその場にいても問題ありませんでしたが、八田や長沼らは和田側との接点はあまりなく(ただし八田の場合、息子の八田知重邸が近隣にあったらしいので今回加えたのかも)なぜこの場面に加えることにしたのか気になるところです。

義時の息子たち

 さてこれから戦だと周りが慌てふためく中、泰時はと言うと自棄酒を煽り泥酔状態となっていました(泰時が相当な酒好きだったらしく戦の前日から飲んでいて泥酔したまま戦ったという点については事実だったようです)
 それを見かねた初は水をぶっかけて覚醒させようとしていました(しかし、この前年に泰時の後妻が次男を生んでいるので、既に離縁していないとおかしい筈なんですが、もしかしたら別れなかった事にしちゃうのかもしれませんね)
 何とか戦に向かった泰時でしたが、二日酔いで朦朧としている中での戦いだったため、今後は酒を絶とうとしたものの直ぐに決心が揺らぎ、結局深酒はしない事に落ち着いたというエピソードが吾妻鏡に残されています。

 一方、弟の朝時は蟄居していたところを初が呼び寄せた事になっていました。しかし、上にも書いた通り史実上では泰時と初は離縁しているため、実際は義時が呼び寄せたんだろうと思われます
(恐らくは戦で活躍させて、何とか御家人に復帰させようという義時の親心があったのではないでしょうか)
 本編での朝時は戦はからっきしという様子が描かれておりました(足に矢が刺さったように見せかけ前線から逃げ出したり、へっぴり腰で刀を振り回したり等々)
 しかし、実際の朝時は勇猛な武将と言われた朝比奈義秀と負傷しながらも戦っており(本編には朝比奈義秀が勇猛に戦った場面が殆ど無く、しかも実際は討ち取られないまま唯一逃げ果せた筈なのに、巴の前で息絶えたような場面まであったのが少々残念)かなりの活躍を見せて、合戦の後見事に御家人に復活しました。

大江広元について

 戦が始まり、鎌倉殿や政子らは御所を抜け出し鶴岡八幡宮に避難しましたが、実朝が頼朝の代より引き継いでいた源義朝の髑髏(かどうかは定かではない)を御所に忘れた事を思い出し、何故か大江広元が取りに行くという場面がありました。
 大体こういう場面では替わりに取りに行く=死のフラグみたいなイメージが有りがちなんですが(宗時が亡くなった時も同じような感じでした)
今回は政子が手を取って励ましたお陰か、鬼神が乗り移ったかのような無双状態でバッタバッタと斬り倒し、無事に持ち帰る事に成功しました。

 …となってはいましたが、和田合戦時の広元は既に60代後半のおじいちゃんだったはずで、仮に若い頃に相当な剣豪だったとしても果たしてこのような動きが出来たかどうか…本作では広元は密かに政子を慕っているような場面もありますし、二人の関係性を印象付けるためにこの場面を組み込んだのかもしれません

義盛の最後

 泰時らの活躍によって徐々に和田勢は追い詰められていきました。ここで義時は実朝を前線に連れて行く事にしました。
 表向きは降伏を促すために鎌倉殿が説得するとなっていましたが、義時はそんなつもりなど微塵も無く実朝を囮にして義盛をおびき出し、他の御家人への見せしめのために誅殺するという非情な手段を取ったのでした。
 恐らく上総広常を誅殺した時の事を御家人達に思い出させ、今後も反乱など起こさせないような意図だったんだと思います
(実際の義盛の最後は、息子の義直が討たれて嘆いている所を討ち取られたとなっており、実朝についても前線に連れ出されてはおらず、上記の一連の流れについてはドラマ上の創作部分になります)

 その後に義時が独り涙を流していましたが、表向きは人の心を持たない恐ろしい権力者を装っており、心の中にはまだ良心が残っているのではないかと見ています(義経を討ち取った時の頼朝が独り首桶を抱きしめて泣いた場面と重なります)
 今後義時が涙すら流さない大悪人となってしまうのか、ひたすら良心を隠しながら悪人を演じていくのか注目したいと思います。

 和田勢が壊滅した後、馬に乗った巴が名乗りを上げて戦う場面があったんですが、どう若く見積もっても50歳前後くらいになるはずなので、義盛に救われてからも鍛錬に明け暮れていたのかもしれませんね…

実朝の覚醒

 義時の策略により、騙し討ちのような形で自分の目の前で義盛が討ち取られた事によって、鎌倉御家人(義時)に対する信頼が無くなり今後は後鳥羽上皇を見習うと義時に宣言していました。
 が、実際は和田合戦後に実朝と義時の間が険悪となったという記録はなく、それどころか合戦後に義時を侍所別当に任じているので、恐らくこの関係性については次回以降への布石となっているのではないでしょうか
(解説本の先の話の部分についてはネタバレ防止の為に読んでいませんので、直接ドラマを見て答え合わせ出来たらと想っています)