修士論文の要約

天皇制国家の再定義を巡る相克としての津田事件における問題
津田事件は、戦時期の大きな過渡期に総力戦という国家の再編をめぐる動向の中、「国体」をめぐる多様な議論が展開されていく中で、その国体の中心たる天皇という存在をいかに位置付けるかという問いと、目指されるべき国家像の構想という問いの横断がなされた場所となった。
原理日本社は自身の掲げる観念的な「中今」の「日本」への「信仰」に根差した国家像の構築のために、その障害となっていた東京帝国大学をはじめとする帝国大学の知識人を攻撃していた。その論理は、国家の官吏を育成するべき帝国大学の教授陣が「反国体的」であるという議論であり、自分たちの信仰の敵として問答無用で排撃を行った。それは、興国同志会の系譜をひく勢力、具体的には文部大臣であった荒木貞夫や貴族院議員の菊池武夫ら政界の有力者を同人として、強大な効力を発揮したのであり、時には文部省や内務省、司法省といった官庁組織への脅迫を伴いながらその信仰が強調され続けた。その影響が最も強まったのが帝大粛清期成同盟を結成し帝大粛清運動を実践した一九三八年である。東京帝国大学法学部の最大の敵、天皇機関説を展開した美濃部達吉を排撃し、政府が二度にわたる国体明徴声明を発し、原理日本社的な風潮に連動していく中で、日中戦争という「世界史の転換」期に、信仰の敵である帝国大学を骨抜きにしようとした。
同時期荒木貞夫文相による帝大学長選任問題とも連動しながら展開されたその運動であった。また、当時東大経済学部の派閥抗争に乗じて、味方である革新派教授土方成美らと共謀しながら、人民戦線派教授大内兵衛ら、また自由主義派の河合栄次郎を排撃した。しかし最終的に、平賀粛学において土方も河合も喧嘩両成敗という形で解決され、原理日本社が望んだ結末にはならなかった。ここで原理日本社の動向は分岐点を迎える。すなわち、排撃した人民戦線事件で検挙された教授陣、とくに有沢広已などは帝大辞職後陸軍のブレーンとして、総力戦体制の構築に向け体制内に入り込んでいく。また、土方ら革新派も同様に総力戦の推進を図っていく。これは、法学部においても同様である。
原理日本社が特に批判していた東大法学部においても、例えば蠟山正道や矢部貞治は昭和研究会の中心メンバーとして総力戦大戦の実践に傾倒していく。とくに矢部は近衛文麿の新体制運動の理論的支柱として近衛新体制を支えると共に、新体制運動挫折後は、海軍のブレーンとして総力戦の実践に大きな影響力を有する存在となっていった。原理日本社は、昭和研究会に代表される新体制運動を「アカ」の動きとして、マルクス主義の延長に過ぎない、反国体的な運動と厳しく批判する。こうして、平賀粛学までは体制の「主流派」でいたはずの原理日本社は、むしろ体制の非難者としての位置づけに置き換わる。同時期、新体制運動の批判として佐々木惣一ら自由主義者や平沼騏一郎を代表とする観念右翼の「幕府論」批判が展開されたが、これら影響力を有していた批判勢力と原理日本社は提携できなかった。それは自身が非難し続けていた自由主義勢力との連動を意味するものであり、また原理日本社は中心となった蓑田胸喜の体調不良も合わさり急速に影響力を喪失する。
むしろ、原理日本社の影響をうけた小田村寅二郎の率いる学生協会が強硬な姿勢を貫き、東条英機内閣によって一斉検挙される事態となって
いった。
以上、原理日本社の動向をまとめたが、これは経済政策や戦時体制を中心とした原理日本社の過程である。原理日本社の日本への「信仰」は、当然国家の根本としての天皇への信仰を伴うものであった。即ち、その原理日本社の論じた政祭一致の天皇論の思想的挫折が津田事件である。
津田事件の現場となった東京帝国大学法学部の東洋政治思想史講座は、一九三〇年代における帝大知識人の排撃と、帝大自治問題、平賀粛学といった「学問の危機」を最も間近で観察していた南原繁が中心となって設立されたものである。南原は古代ギリシャのプラトンからカントの永久平和論、フィヒテの国家論の研究を通じて、永久平和を理想とする国家論の構築として、真・善・美と正義の並立と、宗教的な絶対善への信仰をその根本として持つ価値並行論を主張し、「血」のつながりによる民族主義、政治と宗教が一体化した政祭一致の国家体制、即ち「生の共同体」を鋭く批判していた。そして、その「生の共同体」は当時のナチスドイツや、大日本帝国の在り方であった。
当時「東洋思想」や「日本思想」は「国体論」の象徴であり、例えば文学部における日本思想史講座は平泉澄が担当し、平泉は自身の掲げる「国体護持史観」を積極的に展開していた。平泉の影響力は大きく、軍部、政界と多くの進講する機会を得ていた。その中、南原はそうした「国体論」に対して学問的に科学的に日本の思想を研究することを構想する。そこで丸山眞男をその担当にすべく助手に採用した。また最初の担当講師として、科学的に学問をしている私学の研究者として早稲田大学教授の津田左右吉を招聘すること決定する。津田は、一九二〇年代から一九三〇年代にかけて、当時の復古主義とアジア主義的な風潮を鋭く批判し、西欧普遍主義的な立場に立つ議論を展開していた。こうして津田が東洋政治思想史講座の担当として着任する。
当時南原は、一般的に大学の自治を守ったと評価される平賀粛学を強硬に批判するなど、法学部内において孤立していた。同僚の矢部貞治は自身が昭和研究会に参加していく中で、無責任であり続ける南原へ避難意識を高めていく。しかし、この時期南原は「大学の自治」の発表し、学問の意義を国家への貢献ではない「真理の探究」と位置付けるなど、以上に見た東洋政治思想史講座の設立と津田の招聘などで具体的な実践を起こしていた。その中で津田事件は起こる。
一九三九年一二月東洋政治思想史講座の講義最終日に詰問にあった津田は以後徹底的に原理日本社に排撃される。翌年には内務省より著書の発禁処分が下され、販売元の岩波書店店主岩波茂雄とともに起訴される。そうした中、南原は津田の公判を、学問的に学問の意義を証明する場として企図し、上申書の作成などでその主導的な立場をとっていく。そして、実際の公判の判決は、津田に有利な判決であり、検事側が控訴した二審も開催されず津田は免訴となった。しかし、戦局が過酷な状況を迎えていく中で、公判で示された津田の天皇観と連動していく形で、南原を中心とした法学部教授によって終戦工作が実践される。それは天皇と国民を直接結びつけ、「天皇の裁断」で戦争を終わらせる具体的な構想であり、大日本帝国憲法の枠組みを超越する政治的な機関としての新たな天皇の位置づけだった。そして、南原はその終戦工作の決着として、一九四六年、天皇による「人間宣言」がなされた後、それを大々的に評価し、国家の「精神的紐帯」として道徳的存在とし
て天皇を位置付けると共に、戦時期、政祭一致、南原の批判する血族的な民族主義である「生の共同体」の象徴となった昭和天皇の退位を論じることで、戦後日本の精神革命と平和国家としての進展を主張する。これが南原の終戦工作の結末であり、「生の共同体」を破壊していくこと、すなわち津田事件の結末に至るものであった。同時期津田左右吉も「建国の事情と万世一系の思想」を津田事件における自身の主張の発表の場として『世界』の創刊号に発表し、国民による民主主義の実践と天皇の両立を歴史的な背景から論じ、天皇を国民の「象徴」と位置付けていく。こうした、議論が大きな影響をもって象徴天皇制の有力な思想的な素地を構築した。そして「信仰」の根本的な理論を失った蓑田胸喜は自殺に至る。蓑田は南原のいう「生の共同体」に殉じたのだった。天皇が国民と直接結びつけられ、個人の人格の自律の「精神的紐帯」の「機関」として位置付けられる過程、それを学問的に立証していくこと、ここに東洋政治思想史講座の設立、津田事件から連続する南原の終戦工作の結末であり、新たな天皇制国家像の提示である。


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