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『ドライブ・マイ・カー』 言葉を紡いで内側を曝け出す恐怖と、わたしたちは戦うしかない

言葉とはいったいなんなのだろうか。主に情報伝達に使われる言葉は、わたしたちの心に渦巻く感情に形を与えて、表現する手伝いもしてくれる。

感情は言葉を伴って生まれてくるわけではない。わたしたちは感情に言葉を与えて口に出すことで内側を曝け出している。

言葉にしなければ、自分の内側を外に出すことはできない。同じ言語を使用していても、何を考えていてどんな想いがあるのか言葉にしなければ、理解し合うことはできない。

他人だけではなく自分との対話においても同じことだ。自分のなかに靄がかかったような感情があるときは、言葉にすることではじめて客観視できる。言葉が感情を形作ってくれるから、触って確かめられるようになる。

2024年最初に見た映画『ドライブ・マイ・カー』は言葉との向き合い方を考える機会をくれた。

映画『ドライブ・マイ・カー』に出てくる登場人物たちは、言葉の使い方がどうにも下手くそだ。複数の言語で成り立つ演劇を作る劇作家兼俳優の家福悠介(西島秀俊)もその妻・音(霧島れいか)も、幼い娘を亡くしたという悲しみを言葉で共有ができないまま、時がすぎてしまった。

仲睦まじいように見える夫婦の間には拭いきれない違和感が横たわり、微妙な不自然さを見て見ぬふりをして過ごしてきた。音は悠介以外の男性と関係を持つようになり、SEX後にうわ言のように語る物語でしか、自分を表現できなくなってしまう。そして音の浮気に気付きながらも見て見ぬふりをする悠介。互いに大事なことは言葉にせず、自分の感情も相手の感情も手に取ることはできないまま、音はくも膜下出血で亡くなってしまう。

悠介のドライバーを務めることとなる渡利みさき(三浦透子)もそうだ。母親に虐待され、母親の第二人格を受け止めて生きてきた彼女は、ずっと聞き手として生きてきた。幼い頃、土砂崩れに巻き込まれた母親を助けなかったという後悔を誰にも明かせないまま、偶然流れ着いた広島でひっそりと生きていきた。

母を助けずに逃げた先の広島にずっと暮らし続けているのは、彼女が自分自身を許すことができないからだろう。彼女もまた、自分の感情を言葉にすることができないから、動き出すことができないのだ。

この作品で異質な存在にも思える高槻耕史(岡田将生)も言葉の扱いが下手な人物の1人。高槻は、女性と身体を重ねることで自分の中身を満たそうとしている。自分を表現できる言葉が自分のなかに見つけられない。言葉を使って自分のことも相手のことも理解することができないから、身体を使ってわかり合おうとする。言葉も身体も使わずにどこか逃げようとしてしまう悠介とは対になる存在だ。

悠介は自分の感情を言葉にできないまま、妻の死に対する悲しみに耐えてきた。愛する妻がどんな思いで浮気をしたのかもう知る術はない、でも状況が重なる芝居を演じセリフを口にすると、自分の感情が引きずり出されてしまう。彼女の貞淑さがまやかしだったなんて思いたくないのに。

この物語は、自分の感情を言葉にできなかった後悔を経て、言葉で表現することの恐怖に向き合い前を向く物語だ。悠介とみさきは車の中で会話をすることで、自分の感情をポロポロと言葉にしていく。相手の言葉が自分の言葉を引き出し、悠介が泣きながら妻への想いを語るシーンは、自分自身の感情と言葉への向き合い方を省みてしまう。

言葉を紡いで、自分の感情を吐き出すのはとても怖い。でも言葉は、感情に輪郭をくれる、触り方を教えてくれる。言葉にするから、悲しみも恐怖も後悔も、どうにか扱えるようになるのだ。言葉を尽くして、内側を曝け出す恐怖に向き合うことは、わたしたちをすこし明るい方へ連れて行ってくれるのだ。

ラストシーンで描かれる表現する怖さを乗り越え、舞台上でセリフを口にして感情を表す悠介や、広島というある種の呪縛から解き放たれて、新天地でにこやかに車を走らせるみさきを見ると、言葉が連れていってくれる明るい方を少し覗きたくなる。

ドラマ用サブスク代にします!