切抜7「終末旅行」

(「切抜」シリーズは、今胸の内にあるモヤモヤを言葉に乗せてまとめる、いわば心の整理をするための雑記帳というもので読んでいただければと思います)

紅掛空色が一面に広がっているところに、誰かとはぐれてしまった波状雲の小さい群れが点々としている。
野焼きの田畑、集合住宅地、昭和と平成の残党が生きている小さな町、地元の山にも負けない大きな山々、様々な景色が目まぐるしい速さで移り変わっていく。
これからゆっくり時間をかけて、故郷の長崎へ帰る。

父親のガンが発覚しておよそ1年が経つ。
まだコロナが流行る前の1月に父親がガン治療で入院したという知らせを母親から聞いて、ショックと心配で半べそ状態で地元に帰った。
地元に着いてからすぐに父親に会ったが、ベッドの備え付けの机には日本歌曲集の楽譜や五線紙の束、次回の演奏会に向けたメモなどが積み重なっていた。全く元気だったのだ。少々心配しすぎたかなと思ったが、その時はそれで良かったかもしれない。
私が名古屋に戻ってから抗がん剤治療をするとのことで、「大変だろうけど、元気で居てもらわないと困るから頑張って」と、淡々とした会話をして、2,3日程滞在した故郷をあとにした。

(今年の1月に訪問した時に「元気で居てくれよー」という話をしたあとで撮った母親との父親の写真)

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春を過ぎて、夏を越えて。
その間に定期的に母親とは連絡を取っていた。主に父親の容態の事だった。抗がん剤治療はなんとか済んだけれど、病状が好転することはなかった。次第に呼吸が苦しくなり、就寝時に咳き込んでは目が覚めてを繰り返してしまい、挙句の果てに肺に水が溜まってしまう程に、病は父親を蝕んでいたそうだ。
母親からいつもの調子でそれらの話を電話で聞いていたが、如何せん近くでその状態を見ていないため深刻さがどんなものかが全く想像出来ないでいた。話を聞いていた時は、病院で治療を受けているならきっと大丈夫だろうという今思えば全く根拠の無い自信がそこに居座っていた。

ある日の母親との定期連絡で、遂に父親の胸に穴を開けるという話を聞いた。あれだけ父親が愛飲していた水ですら喉を通ると吐き出してしまう状態にまで病が進行してしまったからとのことだった。今後はその開けた穴に栄養剤を入れて健康状態を保つそうだ。
それこそ検討がつかない状態だったが、単純に考えて、人間にとって生きるために最低限必要な「食」の楽しみを失ったというのは大きなショックであることは間違いないと思った。私や母親もショックだったが、一番にそのことの辛さを感じているのは紛れもなく本人だったろうと思う。しかし、父親に降り掛かる最大のショックはその後で待ち構えていたのだ。

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父親は地元の女子校で音楽の先生として教鞭を執っていた。そもそも教師という職には20代の頃から就いていて、初めは短大の非常勤講師として働いていたそうだ。父親は生まれつき体が弱く、まだ医療が発展していなかったその頃、何かしらの病気で麻酔無しで髄液を抜く治療を受けたことがあったり、甲状腺の治療やその他大きな病気に罹る度に体にメスを入れていた。それらのほとんどは私や兄たちが生まれる前の、本当に若い頃に経験していたそうだ。私たちが生まれてから後は、入院して手術といった大掛かりな治療を受ける程のことは一切なかった。そんな体が弱い父親ではいたが、特技としてピアノ専攻の人達が羨む程の指のまわる演奏が出来たり、初見の楽譜もスラスラ演奏していける技術があった。元々国立音楽大学で作曲専攻であったということもあり、初見力や演奏技術には長けていた部分があった。


また父親は合唱曲や教会音楽が専門分野でいた高田三郎氏の弟子だった。クリスチャンだったというわけではないが、長崎は教会が多く存在していることもあり故郷に貢献するためにも、何年経っても芸大和声の本とは真摯に向き合い、譜を起こし続けてきた。4,5年ほど前の夏に京都の同志社中学のチャペルで聴いた父親の曲は見事なまでなモノフォニー作品だった。

父親はとにかくクラシック音楽を愛していた。一番上の兄にコントラバスを教え、二番目の兄には作曲を教え、私にはチェロと歌を教えてくれた。(私の場合厳密には後に父親の伝で声楽の先生を紹介してもらった)
子供たちがそれぞれの場所に飛び立ったあとも、父親は五線紙と向き合い、鍵盤と向き合うことを日々欠かさず行なっていた。ガンであることが分かってからも、入院治療から自宅に戻ってきたあとも欠かすことなくその習慣をずっと続けていた。

しかしある日、母親がピアノの部屋から静かに戻ってくる父親を見て何か様子が違うことに気づいた。
父親は、以前のように自分の指がまわらなくなってしまったことに気づいたそうだ。確かなものだったはずのそれがハッキリと輝きを失ったのを実感した父親が、その事実にひどく落ち込んでいたと母親が電話で伝えてきた時、私もショックを受けた。
ピアノも弦楽器も、生まれてからずっと聴いていた父親の音の数々を、もう二度と直接聴けなくなってしまったということがとても悲しくて仕方がなかった。

ふと、私が声楽を習い始めてから初めて立った発表の舞台で父親が伴奏をやってくれた時のことを思い出した。その時私は珍しく熱を出していて、先生や周りの人達に休めと言われていたものの、初めてだから頑張りたいという気持ち一心で舞台に臨んだ。父親の伴奏は歌う側にとっては出しゃばり過ぎるくらい五月蝿い伴奏だったが、今思うとあの時の伴奏は私が緊張と熱に負けないように鼓舞してくれていたのかもしれない。初めて歌ったのは「黒猫のタンゴ」と「おやすみなさい」の2曲だった。忘れもしない、強烈な舞台だったな。

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その後、ピアノが弾けなくなったことに気づいてから父親の容態はみるみる悪化していったそうだ。楽譜を起こす力も、ペンを握る力も無くなり、更に栄養が足りず歩くのが困難になってしまい、再入院のために病院に向かおうと自宅を立つ時、玄関の段差を自力で降りることが出来なかったらしい。入院してからはこれといった治療を受けることなく、顔つきはガン患者のように黒くなっていき、これまで酒樽のように張っていたお腹も萎んでしまって、今では四肢も見る影もなく随分痩せ細ってしまったそうだ。
会話も以前まではテキパキ行えていたものが、最早話すことすら体力を使ってしまうからということで、あまり発語しなくなってしまったと母親が電話口でそう言っていた。こちらから話しかけて、「聞いてるよ」と返事を貰ってもその後には眠ってしまっている状態が増えてしまったと、笑い話のように話しているものの、どこか寂しさが見え隠れしている母親の声を聞いて改めて事の深刻さを感じた。

「音楽」を天に戻されてしまった父親は今相当辛い思いをしていると思う。近くで看病をし続けている母親には弱音も泣き言も何も言わないそうだが、自分の命がそんなに長くないことに気づいている今、父親は何を思ってこの日々を過ごしているのだろうか。そんな日々を過ごしていく中で、父親が「私に会いたい」と母親にこぼしたそうだ。その話を聞き、私はこれからコロナの再流行が深刻化する前に即座に地元に戻る決断をした。



「もしかしたらこれでお父さんに会うの、最期になるかもね」
と母親に言われたが、冗談抜きでそうかもしれないと思った。恐らく今後コロナが消滅することはないだろうし、規制を厳しくしたり緩くしたりの繰り返しで不安定な生活を要されることとなるだろう。それに地方ともなると、コロナ対策は都会より厳重だし、今後もっと厳しくなっていくだろう。そうなってしまったらいよいよ父親の最期に立ち会える可能性は確実に低くなる。

また実感がないまま身内が旅立ってしまうことを考えると、正直堪らなくつらい気持ちしかない。今では私の中で礎となっている音楽性や感性的な部分を母親よりも父親に多く教えてもらった。そんな人生のキーパーソンでもある父親がこの世から居なくなるなんて、想像が全く出来ない。

明日、1月ぶりに父親と面会する。
ただし父親は院内から、私は院外で遠く離れたところからほんの数十分だけ顔を合わせる。
遠くでも父親と顔を合わせる時、私は何を思うのだろうか。また父親は何を話すのだろうか。弱りきってしまっている父親に会うのはとても怖いが、唯一の娘として、伝えるべきことをちゃんと伝えられるように、覚悟と心の準備をしておきたい。

当たり前だけど、いざ大事なものを失ってしまうのは怖いと思った。それならいっそ手にしなければいいと投げやりな気持ちにもなってしまいたくもなるが、人間はそれがないと大半の生きる理由を無くしてしまう。見えないものから触れられるものまで、一人一人の中に大事なものは著しく存在してる。

その大事なものを、明日も慈しめますように。

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朝。

やや固めのボックスに高反発性の枕という、個人的にあまり嬉しくない睡眠環境で無理やり休めた体を起こして、昨日の移動時に買ったキッシュを2つ頬張り、身支度を済ませた。

今朝の長崎の下町の風景はとても澄んだ空気をしていた。空は私の大好きな青色だった。今日は良い1日になるだろうと思い、ホテルをあとにした。

大通りを抜ければタクシーの1台くらいすぐに捕まるだろうと思っていたが、道行くタクシーのほとんどが予約車ばかりで、泣く泣く路面電車で長崎駅まで向かうことにした。
駅に着いてから、昨夜暗くて全く見えなかった改装後の長崎駅の全貌を目の当たりにした。鉄骨がむき出しになっていたり、足元がまだまだ更地の状態で舗装工事はこれからといったところだった。これから少しずつ時間をかけて肉付けられて、またいくつか年月が経過した頃にやっと街の新しい標となるのだろうと思うと、とても楽しみだなと感じた。

大きなボストンバッグを駅のロッカーに預け、ショルダーバッグを下げて病院へ向かった。駅から病院まで片道5分強のタクシー移動の間、窓の外を眺めていた。大半は変わっていなかったが、保育園児の頃にたまに両親に連れられて遊びに行っていた天主公園が工事の関係で遊具が全て取り払われてしまっていた。きっとどの街に住んでいても誰もが感じてしまうことだろうが、自分にとって思い出の場所であったり見慣れた景色が無くなってしまうのは素直に寂しいことなのだ。その上幼い頃に少なからず親しんでいた場所がそうなってしまったら尚更寂しさを強く感じてしまう。
信号が青に替わり、時速60キロの速さでその公園の景色から引き離された。寂しさが私の胸の奥で押し隠していた感情に干渉してきて、途端に父親に会うのが怖いという気持ちを再び呼び起こしてきた。漏れ出てしまったそれを無理やりなんとか押し込めて、間もなくして目的地へ到着した。母親に電話で更なる待ち合わせ場所について聞き、昨日とは打って変わって皮膚を刺すような冷たい向かい風にあたりながらその場所まで移動した。

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待ち合わせ場所は透析患者用出入口だった。
ほぼ病院の裏口といってもいいほど日当たりは悪く、鬱蒼とした空気がどことなく漂っていた。こんなところで待ち合わせかと少々不安な気持ちになっていたところで、母親から「お父さん、まだ身支度してるからもう少し待ってて」と連絡が入り、もうしばらくの間冷たい風にさらされることになってしまった。もしかしたら調子が悪いのではないか、或いは悪化してしまったのではないかと不安な気持ちが過ぎり、抱えていた負の感情たちがたちまち蠢き出した。しかし不安な顔で父親に会う訳にはいくまいと、少しの間でも気持ちを落ち着けるべくお気に入りのプレイリストを聴いたり、特に何の目的を持たずにツイッターの画面をひたすらスワイプするなどして時間を潰した。

二重になっている自動ドアの向こうから人影が見えた。目を凝らしてみたら両親だった。若い看護師に車椅子を押してもらいながら、その横に付き添いで母親が歩いてきた。近づいてもドアが開かないように病院側でセッティングしてもらっていた為、お互いに程々にガラス戸に近づいても全く問題なかった。病院に来るまで、てっきり私は5メートル以上離れた場所で窓越しに会うとばかり思っていたので、こんなに近くで顔を合わせることが出来たことにとても安堵した。
母親が私の顔を見るなり鞄からハンカチを取り出し、自分の目元を拭っていた。私より先に泣き出したのは母親だった。私は元より父親と会う時は至って元気に笑顔で会うつもりでいた。が、母親の涙を見てしまったせいで、箍が外れたように涙がボロボロと溢れ出てきてしまった。

父親の姿は母親から電話で聞かされていた通り、四肢が枝のように痩せ細ってしまっていた。顔色も以前までの色より暗くなってしまって、1月に会った時には豊かだった表情もその顔から1つも無くなってしまっていた。瞬きを一度もしない父親の据わった目は私をずっと見ていた。横にいた母親が「この子分かる?」と訊ねると、間髪入れずに私の名前を口にした。これは後から聞いた話だが、父親は緩和ケアとして少しずつモルヒネを投与されているそうだ。それのせいで記憶や言葉が少しずつあやふやになってきているらしい。だから母親は父親に私の名前は何かと訊ねたそうだ。

私は父親に顔を見てもらおうとマスクを顎下までおろした。泣くより先にちゃんと元気な姿を見せようと必死で笑顔を作ったが、感情はみるみる溢れ出てしまい、結局大粒の涙を流しながら笑顔を作ることになってしまった。顔を見たら何かしら言葉が出るだろうと思っていたがなかなかかける言葉が見つからず、思いつきで「元気しとったね?」と状況に全く見合わない言葉を投げてしまった。まずったと思ったが、父親は返事をする前にゆっくりとピースサインを作り私にそれを振って見せてくれた。私も即座にピースサインを作り父親に振って見せた。
「私もこげん元気かけんね、お父さんもこれからも元気で居てもらわんと困るけんね」
と話しかけた。母親が父親に、私に伝えたいことはないかと訊ねていた。分厚いガラス戸のせいで父親の声はなかなか聞き取れず、母親が代わりに父の言葉を伝えてくれた。
「歌の勉強をしなさい」
とのことだった。声楽の勉強を怠るなと父親は私に伝えてきた。父親には申し訳ないが、私は声楽の勉強をほぼ諦めている。その代わり、声で演じることの勉強をするためにも、春にはモラトリアムの延長線として生活していた愛知を立ち、関東へ身を移すことにしている。罪悪感を感じつつも、いつものヘラヘラとした調子で頑張ると答えた。父親はまだ話を続けた。
「お父さん、まだあんたに教えなきゃいけないこと沢山あるけん。頑張って元気になるけん。」
話すことにも体力が要るはずなのに、途切れ途切れでも父親は話しかけることを辞めなかった。確かに私は父親からまだまだ学びたいことだらけなのだ。特に和声については父親の知識は底知らぬ量であるから、その知識の受け継げる部分は受け継ぎたいと思っている。だからこそ、父親にはどうか元気でいて欲しいと心から思った。

面会しておよそ15分という短い時間ではあったが、そのうち父親が疲れたと漏らし、病室へ戻ることになった。去る前に父親が「会えてよかった」と伝えてきた。それに堪らず大粒の涙がまた溢れてしまった。父親の言葉を煙たがっていた時期はそんな言葉を投げられても「あっそう」「やだ、気持ち悪かね」と半ば照れ隠しを含んだ反抗的な返しをしていたが、今日で最期かもしれないと言われていた手前、真っ直ぐに「私も会えて良かったよ」と伝えた。車椅子の向きを変えたあとも父親は片手でピースサインを作り、今ある体力でゆっくりとそれを振り続けていた。姿が見えなくなるまで、父親も私もピースサインで互いを見送った。
二重扉の向こうから両親の影が見えなくなったあと、堪らず扉の前で泣き崩れてしまった。言葉こそ出なかったが、次に会うことが二度となかったとして、もっと話せることがあったのではないか、もっとかけたい言葉があったのではないかとあらゆる考えが頭の中を駆け巡った。それより、父親の命日を迎えてしまった時、今感じている痛みよりも更に引き裂かれる程の痛みを感じてしまうことにただひたすら恐怖を感じた。
冷たい風が少しだけ角を落とした温度で私の髪を大きく撫でていった。

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病院に迎えに来てくれたタクシーに乗ってもだらしなく溢れ出る涙を拭いながら駅まで戻った。帰りの電車までかなり時間を持て余していたので、兄の墓参りに行くことにした。
長崎の町は広いように見えて小さい。小さい頃は広すぎて歩くことすらとても億劫に感じていたのに、この歳になってから歩くこの町はどこまでも歩いていけるような気がした。駅からおよそ5分程で寺に到着した。数年前に建てられた納骨堂に赴き、兄の居る場所に向かった。写真の中の兄は今でも澄ました顔をしていた。りんを2回叩き手を合わせて、天国の兄に父親を見守っててくれと無責任に願い押し付けた。長崎の地で母親の次に父親の近くにいるのは兄だから、どうか頼むという気持ち一心で手を合わせた。

御堂のソファに深く腰掛けて、窓の外の曇った町を見下ろした。マスク越しからも伝わる線香の香りをゆっくり吸い込み、静かに吐き出して、という動作を繰り返した。何も考えず、ただボーッと過ごすことで自分の胸の内で蠢く感情を沈めた。

程なくして立ち上がり、祖父母の墓参りも済ませ、またいつ訪れるか分からない長崎の景色をもう1枚新たに記憶に焼き付けてやろうと大波止まで歩いた。
昔から長崎の穏やかな海が好きだ。出島ワーフの通りを歩き、女神大橋と海を広く見渡せるところに立ち止まり、満足するまでスマホのカメラを向けた。雲の隙間から差し込んだ陽の光が揺蕩う海の表面を照らした。

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父親の命があまり長くない事実を目の当たりにした滞在だった。改めて人間の命と寿命について深く考えるなどした。
原因が病や事故、他殺自死と様々あれど、いつかは死が私たちを迎えるその日まで何が出来るのだろうか。誰かのために、または夢や希望、欲望のために、何にその命を賭すかは当然だが各々次第である。生きていく中で後悔は付き物である。だがそれに比例して自分で道はいくらでも開ける。目の前にあった可能性を止めることすらできる。いくら社会に囚われていても、人間は本質的なところではある意味自由であるのだ。

私はその自由の中で何度後悔することになるかは分からないが、これまで程々の頻度で恨めしく思っていた両親の存在には感謝していきたいし、定期的に帰省することも考えたい。それからこれまで出会っていた知り合いやこれから新たに出会う人達にも感謝をしつつ、取り分け大切な人たちには愛情を惜しみなく与えたいと思った。
そんな中で、アラサーになってやっと私自身の意思で掴んだ夢を追って行けたら、
今はとりあえず満足な気がする。

最後までご高覧頂き、ありがとうございました。

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