202年6月28日袁紹没

202年6月28日袁紹没
 中国の三国志の時代の人物です。袁紹は字を本初といい、汝南郡汝南県の人です。子は、袁譚、袁煕、袁尚がいます。また袁術(のちに皇帝を僭称)は異母弟です。曽祖父の袁安は、漢朝の司徒でした。袁安以下四代続いて三公の位にあり、そのため天下の人々に大きな影響力をもっていました。このように袁紹は、三国時代の諸侯の中で名門の出だったことがわかると思います。袁紹は堂々として威厳のある風貌をしていましたが、身分にこだわらずよく戦士に対して下手に出たため、大勢の人が彼のもとに身を寄せました。曹操(のちに三国の一つ魏建国を礎を作った)も若いときに彼と交際がありました。
 霊帝が崩御すると、何進(皇后の兄、外戚として力を持っていました)は袁紹と宦官誅殺を計画しましたが、何進は殺害され、宮中は混乱状態となりました。(宦官の台頭が漢帝国の滅亡の要因のひとつでした)袁紹は、司隷校尉の許相を斬ったのち、兵を指揮して宦官たちをとらえ、皆殺しにしました。死者は二千人余りでした。
 崩壊寸前の漢帝国を牛耳った董卓は袁紹を仲間にしようとしますが、董卓とは同盟せず、そのまま冀州に逃亡しました。董卓は袁紹が諸侯らと同盟することを恐れ、袁紹を渤海太守に任命しました。袁紹はかくて渤海から挙兵して、董卓を処罰しようとしました。
190年、諸侯が董卓征討の兵を起こし、連合軍が結成されたときは、実力者だった袁紹が盟主に推挙されました。リーダーシップよりも出自の良さが選ばれた理由のようです。この時、盟主に袁紹を推挙したのは、曹操だったといわれています。
 197年、袁紹は、大将軍に任命されました。(本当は曹操の予定だったようですが、袁紹が不満をもらしたため、位を譲ったようです。すでに袁紹と曹操は敵対していたようです)
 その後、袁紹は、審配、逢紀に軍の事務を統括させ、田豊、荀諶、許攸を参謀に、顔良、文醜を将帥に任命し、精鋭十万、騎兵一万を選り抜いて、曹操の本拠地を攻撃しようとしました。袁紹は少しずつ官渡に接近し、合戦となりました。曹操軍は、長期の疲弊で袁紹軍へ寝返る者多かったとのことです。袁紹は勝利を確信して、輸送部隊を襲う曹操を放置しました。烏巣の淳于瓊が曹操に襲撃され敗れました。さらに本隊将軍の一部が曹操に降伏しました。袁紹の軍勢は総崩れとなり、袁紹は敗れました。(官渡のたたかい)
袁紹は、官渡で敗れた後に発病し、202年、死去しました。その後、袁紹は後継者を公表していなかったので、袁譚と袁尚の間で、権力争いを起こりました。
 袁紹の評価とはどのようなものだったのでしょうか?「袁紹の威容は堂々としていて名は世に知れ渡っていた。しかし外面は寛大に見えるが、内面は猜疑心が強く、謀を好みながら決断力に欠けていた。良い人物がいてもこれを用いることが出来ず、良い言葉を聴いてもこれを実行に移すことが出来なかった。また跡継ぎ問題では、後継者を長子としなかったため、後継者争いが勃発した。袁氏勢力は分裂、骨肉の争いの末、没落した。」という評価が大勢であり、中国統一の器ではなかったのかもしれません。しかし、覇者には、なれませんでしたが、「自分の領土の運営では、袁紹は寛大さと厚情によって人々の気持ちを把握していた」「袁紹の死を多くの人民が嘆き悲しんだ」以上のことから、仁政を執り行った事が分かります。戦争がなければ、良い統治者だったかもしれませんね。#今日は何の日 2024.6.28

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