1857年7月5日クララ・ツェトキン生まれる

1857年7月5日クララ・ツェトキン生まれる
 クララ・ツェトキン(1857年7月5日~ 1933年6月20日) は、ドイツの政治家・フェミニスト。社会主義の立場による女性解放運動を主導し、女性解放運動の母と呼ばれます。
 ドレスデン近郊の村に生まれ、教師になるために勉強する傍ら女性解放運動や労働運動に興味を持ちます。1878年にドイツ社会主義労働者党に加入、この党は1890年にドイツ社会民主党になります。この間ビスマルクの弾圧を逃れて、チューリッヒからパリへ亡命。第二インターナショナルの活動に従事する傍ら、1850年にロシアの革命家オシップ・ツェトキンと生活をともにするが1889年に死別します。その後画家のゲオルグ・フリードリッヒ・ツンデル と再婚(1899年–1928年)、のちに離別。社会民主党に於いては党内左派として活動。エドゥアルト・ベルンシュタインの唱えた修正主義に反対する傍ら、男女平等や婦人参政権など女性解放運動にも本格的にとりくみます。1891年~1917年に社会民主党の女性向け機関誌『平等』の編集者となり、1907年には新設された党婦人部長に就任。1911年には国際社会主義婦人会議に出席し、1904年3月8日にアメリカの女性労働者がデモを行ったことに因んで3月8日を「国際女性デー」とするよう提唱しました。
 第一次世界大戦が勃発すると、社民党首脳部の戦争協力姿勢に反対。ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトと共に1916年にスパルタクス団を結成しました。その後独立社会民主党を経て、ドイツ革命後の1920年にドイツ共産党の結成に参加。帝国議会議員として活動しながら、党中央委員・コミンテルン代表委員を歴任しました。
 1933年にアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を掌握。国会議事堂放火事件で共産党が非合法化されると、70代半ばの高齢をおしてソビエト連邦に亡命しました。同年にモスクワ近郊で客死し、遺骸はクレムリンの壁墓所の壁に葬られました。ヨーロッパ各地から共産主義を代表する人々が弔問に訪れ、故レーニンの妻であったナデジダ・クルプスカヤもその一人でした。#今日は何の日 2024.7.5

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