非日常と日常

財布を失くしてしまった。大学入ってもう2回目だ。

その日は吉祥寺駅周辺の居酒屋で友人達と酒を飲んでいた。僕は酒は強いほうなのだが、この日は寝不足だったということもあり、いつもよりも酔いの回りが早かった。

解散後、帰りにひとりでラーメンを食べることにして、吉祥寺のホープ軒へ。ここで僕は財布から現金を確かに出して食券を買い、ラーメンを啜った。

ラーメンを食べ終えて店を出る頃には一層酔いが回っていたので、休憩がてら道端に座っていると、いつの間にかその場で眠り込んでしまった。

それからどれ程の時間が経ったのか、ようやく目を覚まして歩き出す。酔いは冷めた。何となくバッグに手を突っ込むと、いつも指先に触れる凹凸な感触が無く、財布が無いことに気付いた。

幸いにもタバコまでは失くしていなかったので、とりあえずタバコを吸った。財布が無い事に対して少しは焦った方が良いのかもしれないが、事実、もう自分の手元に財布は無いのだから、焦っても無駄である。誰かが財布を見つけてくれて何処かへ保管してくれたり、交番に届けてくれたりすれば戻ってくるし、盗られているのならば戻って来ないし、ただそれだけのことだ。タバコまで無くならなくて良かったし、この状況の中でそう思える自分は逞しい。

ホープ軒に戻ってみたり、交番を訪ねてみたりしてみても案の定財布は無かったが、その間自分でも驚く程に冷静で楽観的だった。「話のネタが出来たな」位に思っていた。この時の僕は、財布が無いことよりも何よりも、寝不足と吐き気でどうしようもなかった。立ち寄った交番で警官に500円を借り、その金でマクドナルドのカフェラテなんかを買ってしまった。

普段から僕は忘れ物・失くし物が多いのだが、酒に酔うと更に拍車がかかる。以前、携帯を失くしたのも酒に酔った時だった。(その時は幸い交番に届けられており戻ってきた)

僕はこの悪癖をもう廃疾と捉えているので、とりわけ治そうとも思っていない。財布や携帯を失くした所で生命の危機に脅かされる訳でもなく、一時の不便を感じるだけで、数週間も経てば元の生活に戻れる。

ここまで長々と話してきたが、僕が財布を落としたことなどはどうでも良くて、それよりも、財布を落とした事でひとつ思ったことがあった。警察との"感覚の相違"だ。

人によっては非日常的な出来事が起こった時に取り乱してパニックになる。財布を落として交番に駆け込むことなどは、まさに非日常の代表的な例だ。

しかしそれとは裏腹に、駆け込んだ先の交番に居る警察の対応は常に冷静で、事務的である。向こうからすれば、財布の落とし物など良くある事、つまり日常なのだ。

もちろん警察も人間なので慣れも有れば、そもそも警察が一々取り乱していては業務が務まらないということは頭では分かっている。しかし、それを理解した上でも、その場に居る人間の中で自分だけが非日常であるという空間は結構怖い。「皆で渡れば怖くない」という言葉があるように、皆平等に非日常を感じれば、大して怖くはない。自分だけが非日常だから怖いのだ。

焦りや危機感の度合いというものは、自分と周囲の感覚の相違によっても大きく左右されるものだ。しかしこれを逆手に取って考えれば、相手が置かれた非日常の空間に、自分が日常から歩み寄っていくことで相違を小さくすることが出来るのかもしれない。もし誰かが大切な物を失くした時には一緒に焦り、一緒に必死になって探してあげるだけでも感覚の相違が小さくなり、その分だけ不安や焦りも少なくなるのだと思う。

財布を失くすという感覚は、財布を失くした人にしか分からない。自分だけが外界から切り離され、ポツンと取り残されたような感覚に陥る。そのような時に見て見ぬ振りをするのではなく、一緒に取り残されてあげられるような、一緒に非日常を感じてあげられるような、そんな人になりたいと思った日でした。

あと、俺の財布パクったカスは死んでください。


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