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cahier2


1*宇宙は観測される、それは科学の有用と暗黒の交換なのだろう。たしかにある知識を得る、しかしそれ以上に暗黒が広がってゆく。暗黒と魂が感応するとき、余剰、(愛や忠義や誠)が、永久機関として…。エネルギーを、生み出すことは、悪だが、エネルギーは、神に立ち返る時善になる、(光が在ります様に)

2*宇宙線は、聖霊だと思う。重力は、使命、太陽は神、月は、地球と、愛の抱擁をし、連星のように、宇宙のどこか、霊性的な回転をしてる、大地は、直線、青空は魂の深さ、北は、リアリティ、黙想、南は、浅瀬、夢、悲哀、みて、世界は、電線の向こうに、夏の雲があるからさ。どこまでも、歩いて行く。

3*再認の疾患。二つの原因。ひとつは、われわれの身体が、外からの刺激にたいし、記憶を選択に適した構えを、自動的に取れないこと。もうひとつ、記憶の方が、身体内に適合点を見いだせない。すなわち、みずから行動へ展開してゆく手段を見いだせないこと。物質と記憶

4*すべての余剰は霊的である、すべての余剰が魂の文化として、本質は霊界にある。愛とは、余剰から、宇宙の、垂直的な信仰に、降り注ぐ、苛烈なくらいそうなのだが、だから、信仰なき、脳の、局在に騎士道物語は理解し得ない、どうして科学文明は、こんなに浅薄であるか。

5*永遠に目覚めたますらおの呻吟ならばどんな大気も衝突して行ける、爆弾が降ってくる夜も、どころか、アンドロメダが、来たりつつある銀河も、おそるることあらじ、勇雄(いさお)猛々しく、そのような、深淵から、われらの、死にゆくザインに、革命の前夜の光を放て。ただ独り。

6*脳から愛が創造的に発信されるにあらず、物質と独立した精神が先ず在る、それから、愛のような、究極の純粋さが、降りそそいでいる。私たちは、そのように志向するからこそ、(信仰とはこの光の、志向性なのだから、ないなんて見るに堪えない)。脳は、送電線のような、役割をする。

7*カトリックのアニマを、信じて、生きようとするならば、戦下より、酷い時代だ。いつの時代も、そうだったか。少なくとも、現代には大聖堂は、もはや創造できはしまい。

8*霊を証するために、ベルクソンは、物質と記憶のような、本を科学文明に訴えなくてはならなかった、ところで、ブーバーや埴谷雄高、ベルクソンは特に難解とされている、それは現代が究極の純粋さへの志向性を捨て、自我に繋縛されてるからだ。

9*見ず知らずの人への、(その子達も、また星の光が、渦まく存在なのだ、人格、思想が、信じられないとしても、光は信ぜよ)、青空より深い愛を志向しない人なんて見るに堪えない。はっきり言うが、そんな人間は、だれかを愛してない。

10*父のみ旨は、われら一人ひとりが、聖なる人になること、と書いてある。

11*自我とは何者かであるとか、何かがあるとか、思い込む感覚なのだ、鏡の虚像と美しい女のように戯れる、感覚… 私は実在を否定してるか。そうではない、究極の純粋さにおいて志向する、宇宙として、退くのだ。天の道は、狭いと書いてある。はっきり言うが、雫のほか、天を待ち望むのは、難しい。

12*カトリックでも、プロテスタントでも、様々な集団の、宗派ではない、キリスト教系セイユ派の私ですが、理解する望みはなくとも、(理解されようというのは賎しい)、私が聖徳から、苦しみを引き受けるならば、その度合いに応じて、戦う力も、愛も、よろこびもみんなと分かち合えるでしょう。

13*神の霊感は、霊的な愛であり、実在より、確かに在る、すべての升を、神を基準にしなくてはならない。(私は神を愛する、しかし救いの神ではなく)、その中でも、ベルクソンはほんとうの、知性の人。シモーヌ・ヴェイユ。わかる、という希望なく、考えてゆかなくてはならない

14*わたし、カトリックでも、プロテスタントでもない。あらゆる、カトリックの集団の、宗派ではない。根がないけど、だから、汚れを免れなくても、セイユ派として生きようとしたとき、カトリックに約束された救いを永遠に拒絶しなくてはならなかった。わたしは、わたしが、言ってきたロゴス、(言葉)、の、人生になっている。預言に、近いだろう。それは、深い、魂の苦悶を、証し、してきたから。左の手は、右の手の証を知らなくても、おそらく祈り求めたことは、すべて成就したと、セイユの比喩から、神と、交錯して、霊魂に浸透する、痛みから、信じる他なかった。今、ロゴスが肉になったのです。 右の手のすることを左の手に知らせてはならない。永遠の救いが、一杯の水になって、コップの中にあっても、逆さまにする、セイユに愛を。私は、神の愛を、感じています。真理と、美よ、蝋の翼になってくださいまし。太陽よ、今御前に行きます…。

キリストは蝋の翼!!痛ましさ、の上に信仰があることを忘れないように!太陽に羽ばたくわたしを、誓う。ハイデガーの死への存在の読み取り。サハクスではなく、ソーマのように、高次な、愛の水準として。不可能な静謐な門である、叩け、さすればいよいよ閉じられん、されど門は汝のために創造された。

悲しみの聖母。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』 その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26-27)

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