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ドストエフスキー罪と罰を読解して

ドストエフスキーの罪と罰を読んで、霊動した、魂を記録してゆく。

わたしは…死者の耳鳴りがする…桜の意志の泣き声や、こちらに向かってくる、宇宙風の眩暈、射貫くような視線、白い着物と足…語ればきりがない…わたしの、感性が、先浸式してから、霊的に目覚め、私語する、宇宙を認識し始めた。わたし、生きるよ、わたしは祖霊の無念を、祈る、生きることは灌ぎだから、どんなに物質史観が、否定しても、わたしは、みなさまの霊がすべて一緒にある、ほんとうに、ある、のよ、涙、霊的磁場や、暗黒大気風は、大地、として粒子化し、(空なる現世、平家物語を参照、慈しむべき)、そして波動、つまり無の死の世界、(死とは、祖霊なの、埋葬が、originなの、)に一元的に一つでおおよそ歌や祈りによって繋がっていて死にける、人もみんなが互いに幸せを願ったのが日本史観。岸根先生もおっしゃるが波動は心と理解されていて、(科学の角度での説明ではない)、粒子として八百万としてあるが、死の世界とも繋がっていて一つの連続した生の実存。この死に臨み、死を祖霊の心として感応して霊的な魂を育てる、つまり宇宙、生命、美について抱いた親の涙を大事にすること。

ラスコーリニコフが老婆を殺害してラズミヒーンの家から帰るときはるかかなたの永遠と交錯して銀貨、(清い金銭である、憐れみから受け取ったから、)を水の中に投げたシーン、深い波紋だしラスコーリニコフの人生の深淵と言っていい深さから霊性へ昇ろうとする、ファウスト的な、意志が発動した瞬間である光の方へ、光の方へ、行かんとする、

意志によって宇宙は無限に押し返して、(この力が、父の、もっとも美しい法則である)、意志の発動は孤独な鳥のように、大気を、より広く、より深く、より純粋に上昇してゆく。

人生に意義はないけど、祈りはあった。記憶は深い野山になったとしても、鎮魂によって時々祈り、歌う、死者の無念と、愛によって、死と、生の通路は開かれ、つまり宇宙霊から、霊界、アンドロメダから、銀河へ、超銀河から、あの地球へ。光の方へ。

罪と罰はドストエフスキーの膝をついて、ロザリオを祈った夜の告白なのではないか、夜が明けることの延長に死があり、未完なのではないか、光の領域、それは比喩、全体ラスコーリニコフの夜はそのような神からの比喩によって失意のうちにも人間の孤恋があり、そこに聖書の永遠がある。

見ても見ず、聞いても聞かないからと、イエスは比喩で語られた、比喩は、光の波紋、である、一体ユングの潜在意識とは隠れた自己が、ほんとうの、わたしである、臨床的思索ではなかったか、般若心経曰く一切は空である、だから貴方が理解するような貴方ではない、神のみがご存知である、

日向が、海のようだって感性あるけど、透明になってきた、少しずつ、夢は透けて、現世に戻ってこれたのは、

ラスコーリニコフの夜は死ぬまで明けなかったと思う、けど、ラスコーリニコフの、意志と、(それは、ユングの隠れた自己である、いつも、先端にいる、私は般若心経的な空によって自我は否定され尽くす、)、罪と罰は新約聖書が昼なら、夜の祈りに招く霊的な気に充満した書物、

私は群彗星のようにラスコーリニコフやなんかの、意志と対話する共同的な知性の種族だと思う、本は一つの星に訪れてその何人かと仲間になり、宇宙とはつまりさ、生命や文明について混沌の中で私語し、神へ到達する、彗星群の意志が私には実在より確かに感じられる、

修道会への限りない尊崇と涙、私もブラザーやシスターに召されたかった、というこれまた無念があるから、いつか私が死んでも永遠の遺志を感じただれかが灌いでくれると思う、(という瞬間に私は先祖の悲しみと涙に繋がったように感じた、私も、またきみらの無念があるから、生きるよ)、

神を、現す一つの旋律はヴェートベンの第九

ドストエフスキーの罪と罰で、娘の顔が、不幸によって分からなかったの泣いた、見分けると、臨終の苦しみのなかで、ソーニャ!娘!許してくれ!と、叫んで、持ち上げたからだと、手が力なく床へ、どうと落ちるの、魂に刻む、私が神父なら家族が生きるためのお金を使い込んで、酒場に入り浸り馬車に轢かれても、あなたは苦悶してきたし、みんなに許されなかったとしても、私は、あなたの愛を否定しないし、私が神様に代わって許すよ。私たちの神に召されるまで、一緒に許しあって、そういう幸福を、大事にして。

マリアの祈り、罪人を、つみびと、と、唱えるより、ざいにん、が俺にはいいと思う

宇宙のエネルギーを占有するからには、死後も観測できないくらい、(宇宙がシフトする)、というだけで、自ずから、永遠につづく精神の活動(愛や、美、真理、善の、宇宙霊を、礼拝し、またもう一度神の期待に応えた文明を、築く。(岸根先生も、ベルクソンも、心と、脳の平行と、先端によって心が行動化するプロセスを語る)、 ところで、ウナムーノが叫ぶが、天国とは、未来の地球である。科学、(量子力学が、全物理学を、覆われ、岸根先生やベルクソンの宇宙観が、証明される、)、宗教、芸術の三位一体の、文明(その一例が死者の復活である)、

大陸も、大気も、気候も変動する、懐かしむなんて意義はなく、過剰な報道も、嫌いだ。今の日本国に生まれたならば、日本国を愛したい、死を、生のかたわれのように臨み、死の通路を開き、(一方で、都会や月がある、一方で、無がある)、その無が、日本国の、心や悲しみ、八百万と、一元的、

海が秋につれ、透明になってゆく、死者とのお別れがお盆なんだ。だから、春を祝うのだ。おかえりなさい、って。夏のあいだ、海がみちて、みちて、みちてゆく。死にゆく者たちと一緒にいた。どうか、現世に還ってきて、鏡を見ながら、マニキュアする。みんなの幸せを願ったのが、

ドストエフスキー、全集。罪と罰。腹の虫、腹の中で考えるについて。腹には、丹田、(宇宙力)がある、そこに、落としこむ、とは、無と一体化する、という着眼点、最近実証されつつあるには、人間とは違った微視的動物たちのネットワークがある、(最近、このネットワークと、脳の相関が、証明されてる)、微視的動物ほど、宇宙の意志に左右されて、S先端に行動化してゆく。したがって丹田と、深い繋がりがある、微視的動物なのだ。岸根先生について、宇宙の意志という著者があるが、丹田と、宇宙、微視的動物を、理解するには、科学、宗教、芸術の三位一体から、文明を築かねばわからぬのだろう。

災害や夏の過剰なまでの報道が嫌い。原理を学び、備えて、適応し、あとは、忘れて、死に臨むための邁進をする。これあるのみ。今の地球に適応し、霊的な文明、(埋葬を起点に人間になったように、祖霊、死者と、子孫のすべての幸福を祈れるような)、生き方を築いてゆく。

いなくなりたい、脳髄を破壊して、宇宙の風となって。ところが、私は脳髄を破壊した。雫の思想の極点的な革命、(無点だが、無点にあらず)、を、内在化し、ただ独り、雫を、肉を拒否する、なにものか、として、穿たれてゆくと、宇宙の風を感じるようになる、その風に意志の胎動を感じるのだ、

友だち
この御絵を大事にしなさい、あなたを信頼してますと裏に書きなさい。もっとも、頑固な罪によって誘惑された一生だったとしても、神のみ元に招かれる勇猛さを持ちなさい。


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