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代表挨拶と添削

自己紹介も何もせず初めからこんなもので良いのかという思いもあるが、私の自己紹介など需要がないことは100も承知なのでいつか気が向いたら、需要がありそうであればすることにしたいと思う。


先日、入学式があり、私は新入生代表挨拶を務めた。新入生代表挨拶といっても私を含め新入生は153名、美容専門学校の入学式なので学校側には失礼かもしれないが、そこまで大したものではない。


事の始まりは2月だった。
未登録の番号から電話がかかってきた。
番号を調べると進学先の学校だった。
前触れのない突然の連絡に心臓が止まりそうになった。
電話の内容は私に新入生代表挨拶をお願いしたいというもので、目上の人からのお願い、私の性格的に断れるはずがなかった。
緊張しいであがり症の私には1番向かない役割。そんなことはわかりきっていた。
(本番でも案の定噛み噛みだった)

色んな考えが思いが頭の中をぐるぐると巡っている間にも話は進んでいた。

時は過ぎ、3月に私が1ヶ月間、好きな作品を漁り、好きな曲の歌詞を溶けるほど見つめ、たくさん辞書を引いて悩みに悩みながら書いた下書きを提出した。
その下書きの添削をしていただいて、清書したのが今月の2日だった。
かなり前置きが長くなってしまったが、今回の話の本題はここからである。

下書きを提出した際、添削されることは聞いていた。しかし、添削された清書を確認して私はなんとも言えない気持ちになった。

主に3箇所文が訂正されていた。

1つ目、

私たちは今、未来への期待、希望、不安、それぞれが様々な思いを抱えて
                             抱いて

大した違いはない。漢字は同じだし意味も大して変わらない。''いだいて''なのか''かかえて''なのか。それでも私はここが変わったことが少し悲しかった。

私の中で、感情は大切にするべき重要事項の一つである。私自身の感情だけではない。感情を持っている人の全ての感情、今回に関しては同じ日に同じ場所で入学式を迎えたあの場にいた全員の感情も大切にする、されるべきだと考えている。

だからこそ私の中で''感情''はかなり重たいものなのだ。感情に振り回されやすい性格であるが故に''いだく''のように柔らかいイメージを持つものではない。''かかえる''の辞書にあるように、自分の負担になるものを持つことなのだ。私の中での感情はしっかり両手で持っていなければいけないもの、離れないようにしていなければならないものである。


清書後に1度練習した時、私は迷いもなく''かかえる''と読んだのだが、(抱くと書いてあったが抱えると書いていたので抱えると思い込んでしまっていた)''いだく''と訂正された。と同時に「''かかえる''だとネガティブになっちゃうからね」と言われた。

それで良かった。私の中ではそれが正解だった。

先程、感情は重要事項の一つだと言った。ポジティブな感情だけではなくもちろんネガティブな感情も大切なのだ。というより、ネガティブな感情の方が私が大切にしたいものであるので、あまり新入生代表挨拶にはふさわしくない''不安''という単語も入れ、''かかえる''にした。もちろん、暗く捉えられるような発言はあの場では適していないことも十二分にわかっている。


しかし、大した違いがない故に''かかえる''だろうが''いだく''だろうがあの場で聞いている人に何か違った感情を与えることはないだろう、そう思っていた。だからこそ個人的な想いを込めたいというエゴがあった。そこを変えられてしまった、それが悲しかった。ただそれだけだった。


そして2つ目、私は

私たちは今、
真っ白なキャンバス
の上に立っています
                                   を手にしています

きっと訂正後の方がわかりやすく、一般的だと思う。実際私もキャンバスを手に絵を描いたりもしている。ではなぜ、私はキャンバスの上に立っていると言いたかったのか。人によればこの後この後の一文を見れば理解できる人がいると思う。(というか、理解できる人がいてほしい。)

そして、2年後、それぞれの色で彩られたキャンバスを胸に、新しい環境へ旅立つ時

伝わるだろうか。
キャンバスの上に立っていると言いたかった私は別に筆を手に取って真っ白なキャンバスに色をつけていくことを言いたかったわけではなかった。

「実地を踏む」、「場数を踏む」、「足を踏み入れる」
このような言葉がある。共通していることは経験と足に関する言葉であること。

私の中では


キャンバスの上を歩く=人生を歩むこと、経験を積むことであって、卒業する頃には経験内容によって変わる色の足跡で彩られたそれぞれのキャンバスが完成している



そんなイメージだった。これが伝えたかった。
伝わるだろうか、如何せん私には語彙力も表現力もない。きっとこのせいでこの部分が重要であることを伝えきれなかった。私の非である。


最後に3つ目、

充実していた、と浚える日々にしていけるよう
 ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎ ︎︎2年間


こう訂正されていた。確かに2年制の専門学校なので間違ってはいない。しかし私は2年間という言葉にまとめたくなかった。

今を生きるだけで毎日精一杯な私はその日1日を大切にしていきたいと思っている。
専門学校、毎日朝から夕方まで授業があって新しく得るものばかりで、きっと今よりもいっぱいいっぱいになっていくと思う。

だからこそ、その日1日を大切にしたいと思っていたし、2年間という大きな数字は使わなかった。
日々でも2年間であってもこれもまた聞いている側には大した違いはない。
それでも、高校生活をなあなあに過ごしたこともあって、1日を大切に過ごしていこうという気持ちが強かった。

新しい環境で、あっという間なのか、それとも先が見えないような2年間なのかわからない
''2年間'' という単語よりも ''日々'' という単語の方が適切だと思った。


本当にそれだけなのである。


ここまで読んできた方なら気づいてはいると思うが、私はかなり面倒くさい性格だし、思考が偏っている。無駄なこだわりも多いと思う。

そんな私が熟考して書きあげた文章だったからこそ、誰に伝わるかもわからない細かいニュアンスにまでこだわっていたのだ。

別に文が変わったことに納得いってないわけでもない。訂正に反論するほどのものでもないこともわかっている。
全て納得できるが故に、変わっても仕方がない箇所だった故になんとも言えない気持ちになったのだ。

ではなぜここでこの話をしているか。大事なのは

下書きからこのnoteを書いているこの出来事の最初から最後まで、全て私のエゴである

ということ。どうしようもないこの気持ちを、誰かに話してもオチもなくつまらないこの話をただ吐き出したかっただけ。それだけです。

こんな人間なのに、私に新入生代表挨拶を任せてくださった学校にはもちろん感謝しています。それよりも申し訳なさの方が大きいですが、


もし最後まで読んでくださった方がいらしたら、
こんな話に付き合わせてしまって申し訳ないという気持ちとこんな話なのに最後まで付き合ってくれてありがとうという気持ちを伝えておきます。


それじゃ、また、気が向いたら。

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