見出し画像

自己紹介 生い立ちから今現在まで

初めまして、Kazumaです。非常に長くなりますが最後まで読んで頂けると幸いです。
私は、脊髄性筋萎縮症(III型)という難病です。
いわゆる、SMAボディを持って産まれました。

SMAですが、III型の私の場合は産まれた時から歩けず
車椅子生活と言う事はなく、高校1年生までは健常者と
同じ運動能力を持っていました。SMAボディが真価を
発揮してきたのは、17歳の頃です。

両親の話によると、産まれた時にへその緒が首に巻き付いていたようで、他の赤ちゃんとは違う事に少し不安を抱いていたそうです。

小中学校と周りの健常者の子と同じ暮らしをしてましたが、歩いたり走ったりする際に内股気味と保険の先生に言われており、よく転んだり反復横跳びのスピードが
周りより遅めだったり飛び箱が中々飛べなかったりしていたので、既にSMAボディの鱗片はあったのでは
無いかと思っています。

中学生1年時の通信簿で体育や保険の先生からのコメントを見て不安に思った両親と共に、障害のある子が入院や通院している医療センターに行くようになり、
脳波を取った所異常が出て、
軽度脳性麻痺との誤った診断を受けました。
障害者手帳はまだ持つレベルでは無かったため、
その後も健常者と変わらない生活を送っていました。

当時から遺伝子検査を受けていればという気持ちが
ありますが、その頃は殆ど遺伝子検査自体が行われて
いなかったようで、当時の私は健常者と見なされてた
ために受けられなかったのだと思います。

高校2年生のある体育授業の日、私の体に異変が
起こりました。
【やたら走るのが遅い】と自分で感じ、ソフトボールでもお前走るのが遅すぎると周りから言われ、とりあえず見学してろと先生にも言われ、体育の授業は以降全て
見学になりました。この時のやるせなさは忘れません。

高校のカウンセラーに相談するもよく分からないと
突っぱねられ、再び医療センターで脳波を取るも
異常が出ていた脳波が正常値になっており、
よく分からないが障害者手帳は発行すると言われて
軽度脳性麻痺の手帳4級と当時認定されました。

その後学校に行く際には腰を揺らして歩くようになっており、同級生に歩き真似された事にショックを受け、
今まで皆勤だった私は
高校2年から3年まで不登校になりました。

このままでは単位不足で卒業できない。そう思った担任の先生がある日自宅まで来てくれて、久々に学校へ
行った際に特別授業をしてもらい単位を取って高校を
無事卒業する事が出来ました。その先生とは今でも
年賀状のやり取りをしています。

その後専門学校に行き、パワーポイントや
情報検定3級、日商電子会計実務検定初級などの資格を取って卒業し、障害者雇用枠で就職しました。
同時に運転免許を取得しようと考え、専門学校を
卒業する少し前から教習所に通いました。

適性検査に行かなかった当時は手動式ではなく
アクセルを踏めていたので通常通りの教習を受けて
ましたが、坂道発進で上手くアクセルの力加減が出来ず先へ行けなくなり、入社してから教習所に行くのが面倒になり、免許取得を投げてしまいました。

その後入社2年目から杖無しで歩くのがしんどくなり、
杖をついて生活するようになりました。
25歳の頃、両手の筋力低下と指が上手く伸ばせないという症状が出てきており、脳性麻痺では無いと判断した医療センターの主治医から市の大学病院への手紙を
書いてもらい、検査入院を受ける事になりました。

検査入院前のカウンセリングでは、筋肉の病気である
ミオパチーとの判断を受けており、遺伝子検査をした後に筋肉を切り取る手術をするとの話でしたが、
遺伝子検査をした結果、脳性麻痺でもミオパチー
でもなく、脊髄性筋萎縮症とようやく診断されました。

17歳発症である為III型と診断を受け、手帳の等級が1級に
変わりました。
ショックでした。自分が難病なんて。当時は車椅子を
毛嫌いしていた為、車椅子に乗る事を検討して欲しい
と大学病院の主治医に言われても、【車椅子なんて惨めな物に俺は乗りたく無い】と言って意地を張って
杖生活を続けていました。同時に死にたい気持ちも
出てきて、しばらく後ろ向きになっていました。

27歳の頃、免許取得に再挑戦したいとの気持ちが
浮かんで適性検査を受けに行き、もうアクセルは踏めない運動機能との事で手動式装置のある教習所を
紹介してもらい、筋ジストロフィーの方が手動式の条件免許取得をしたとのパンフレットに惹かれ、今回は自腹で費用を払って教習所に入り、仕事をしながら再び
免許取得に向けて学習と実技に取り組み、
6ヶ月かけて無事に免許取得出来ました。

その年の11月に職場でパラ水泳の日本選手権大会観戦イベントがあり、興味を持って参加した際に四肢麻痺や欠損で力強く泳ぐ姿を見て感慨を受け、イベントを主催していた方に言ってパラ水泳チームを紹介してもらい、
練習に取り組みました。30分クロールや水中
ウォーキングが精一杯だった当時、チーム練習始めた
頃は中々筋肉痛が治りませんでした。

2018年の5月、関東大会に出る為に初めてパラ水泳の
クラス分けを受け、歩いたりキックが出来るとの事で
s8というやや軽度部類のクラスになりました。
6月に関東大会に初出場し、50M背泳ぎで日本選手権の標準記録を切り、11月に三重開催の日本選手権に参加できる事になりました。

関東大会の翌日、悲劇が起こりました。
職場でお客さんの荷物を運んでた際に転倒し、いつものように立ちあがろうとして、激痛で全く立てません
でした。救急車で大学病院に運ばれてレントゲンを
取った所、左足の中足骨が四本折れておりました。
ギプスで固定をして職場を労災で4ヶ月間休職することになり、1ヶ月間はヘルパーさんが居ないとトイレ、
ベッドからの起き上がりなどあらゆる事が出来ない
状態でした。
その後リハビリで歩行訓練を行なったものの、外では
歩く事が困難になり、握力も20以下に下がっていた
事から電動車椅子にて生活となり、10月の復職後は
電動車椅子で通勤する事となりました。

11月の日本選手権に無事出場し、その後は
自宅では杖歩行して身体機能を維持しつつ、
パラ水泳を続けて行ってました。

一年後、自宅でトイレに行こうとする際に転倒し、
幸い骨折はしなかったものの左足にあざが出来て
恐怖を感じた為、自宅でも車椅子で移動する事に
なりました。

その後はコロナ禍となり、水泳練習や大会が相次いで中止となり、可能なトレーニングを続けていくも進行性
難病のSMAが進み、立つ事も出来なくなり握力が
低下して行って現在は左手7、右手5未満しか
ありません。ボッチャはBC4に、水泳はs5クラスです。
水泳は大幅にタイムが落ちた現在の身体機能で
周りと競い合えるようになりました。
今はジャパンパラ水泳大会、静岡春季パラ水泳大会に
出ることが出来ました。ボッチャはまだまだ未熟で、
日本ボッチャ選手権予選会で敗退してますので、技術磨いて本戦出場を目指してます。

これからも私は進行性難病のSMAに侵されます。ですがパラ水泳と
ボッチャ競技をやっているからには、国際大会の
世界パラ大会やパラリンピック出場を目指し、
どれだけSMAが進行しようが諦めず続けて行きたい
のです。

最後までお読み頂きありがとうございました。
宜しくお願いします。