日本の国粋主義
今日は明治期の日本の国粋主義者である陸羯南(くが・かつなん)について述べる。彼の書いた「近時政論考」は名著と言う評判をもらっている。今回はこの近時政論考を精読、日本の政治のあり方について考えようと思う。初めて聞く人もいるかもしれないが、とても興味深い説が展開されているので、ぜひ知っておいてほしい。多少難解で学術的な話も出るかもしれないが、維新政党・新風のような保守を語る政党において知っておくべき議論である。根本の政治思想がないと、民主党のようになんでもありのおかしな党となってしまうであろう。
近時政論考は三宅雪嶺の序文に続き、「緒論」から本格的議論を開始している。緒論で羯南は「冷は氷より冷なるはなく、熱は火よりも熱はなし、しかれども氷にあらずして冷ややかなるものあり、火にあらずして熱きものあり、いやしくも冷ややかなるものみな氷なり、いやしくも熱きものみな火なりというはその誤まれるや明白なり」と述べて政治上の論派を分析するときも民権を主張するから調和論派で、王権を弁護するものはことごとく専制論派であるかのような言い方ではなく、その論拠を問うべきだと言っている。これは当たり前のことのように映るが、現在でも十分当てはまる議論である。核武装を論議しようと言うだけで軍国主義者のように言うマスメディアが堂々と存在しているからである。
さらに羯南は緒論の後半でこう述べている。「西人の書を読み、ここより一の片句をぬすみ、かしこより一の断片を削り、もってその政論を組成せんと試む、ここにおいて首尾の貫通を失い、左右の支吾をきたし、とうてい一の論派たる価値あらず」。これは当時の西洋学者や欧化主義政策を取る政府に対する強烈な皮肉だ。今でも人権だ、多文化共存だと言ってみたり、イノベーションだなんだと言う奴がいる。もちろんこういう「一の論派たる価値あらず」という集団の中に私も含まれてしまう可能性は多分に含まれている。そうならないように気をつけているが。
さて、緒論が終わると、各論派の分析に入っている。すべてを取り上げる余裕はないが、ここでは羯南が自身を対象としている「国民論派」と板垣退助らを指した「自由論派」について取り上げる。じつは羯南は自由論派にかなり好意的な評価を下しているのだ。それは板垣らが非藩閥であったことと、板垣を初めとした自由民権論者は実は強烈な尊王論だったことが関係していると思われる。
自由を大事にしているからといって、羯南や自由論派が戦後サヨクのような「自由」を述べているわけではない。羯南は戦後サヨクが大好きなルソーの『民約論』(社会契約説を述べた本)について「『民約論』の主義は実に自由個人主義の極度に達したるものなり」と述べて否定的に扱っている。
では、彼らの述べる「自由」とは何か。羯南は「自由主義如何」のなかで自由主義は西洋からもたらされたものではなく、維新を志したころから始まっていたのだと述べ、「吾輩は国家権威の下における個人自由をもって真の自由なりと信ずるものなり」と言い切っている。これは、個人の自由には国家の確立が不可欠であるという認識であるからでた言葉だろう。ヘーゲルの国家観とも共通している(ヘーゲルの国家観は過去ログ「ヘーゲルの歴史哲学」参照)。
では、羯南の「国民論派」と「自由論派」の違いは何か。それは自由論派は史蹟及び現実から離れた理想論を根拠としているのに対し、「国民論派」は史蹟にのっとった緩やかな自由を実現することを説いたところにある。これは慣習と歴史伝統を重んじる保守主義のさきがけと言ってもよいのではないか。
具体的な羯南の国家観は「国民的政治とは外に対して国民の特立を意味し、しかして内においては国民の統一を意味す」という言葉に集約されている。国民を重視する羯南は「帝室のごとき、政府のごとき、法制のごとき、裁判のごとき、兵馬のごとき、租税のごとき、およそこれらの事物はみな本来において国民全体に属すべきとす」とまで述べている。「帝室」が特に異彩を放っている。これができたころは明治憲法ができたころだが、これを見ても戦前から天皇は国民のものだったことが明らかになる。羯南は「近時憲法考」のなかでも戦後歴史学のような明治憲法を「天皇専制的」だというような非難をしていない。「国民の天皇」ということは天皇は国家を体現する存在であると言うことだ。一方で羯南は天皇の歴史性に触れることも忘れていない。明治憲法に対しては藩閥が作った憲法ということで複雑な気持ちだったようだが、憲法の内容には割合高い評価を下している。
羯南は「国民論派の主持するところの国民的特立なるものは必ず国民的自負心を要用となす」と述べ、国民的自負心(ナショナリズムと見て間違いないだろう)は不正当な感情ではないことを主張し、世界の文明は国民的自負心の競争から生まれるとも言えるとまで言っている。ナショナリズムを敵視する戦後サヨクにぜひ聞かせたい言葉である。
陸羯南は津軽藩の生まれである。つまり、彼は維新の負け組であったわけだ。そういう生まれの背景も手伝って、彼は藩閥政府に反発する論陣を張っている。彼の議論の根底にはそのようなものがある。彼ら、いわゆる「裏日本」の世界観は国内においては藩閥政府によって切り捨てられていくものへの反発、世界的な視座では、世界を席巻する欧米への反発となって現れた。彼が一番日の目を見たのは条約改正問題のとき、井上馨が鹿鳴館外交を行ったり、大隈重信が外国人判事の容認を主張したりしたことに反発したときである。羯南は新聞「日本」を創刊し(ちなみにこの新聞が発刊したのは明治憲法が公布されたとき、1889年2月11日である。羯南はこれを「偶然」と言っているが、おそらく偶然ではないだろう)、日本の国民主義を訴えた。歴史学的には羯南と共闘した三宅雪嶺の雑誌「日本人」と合わせて国粋主義と呼ぶことが多い。羯南の死後、両誌は合体し「日本及日本人」となった。ちなみに正岡子規は羯南を父のように慕っており、彼の短歌を発表したのが「日本」紙上においてだった。
彼らの論は一部に根強い信者を持ち、尊敬されたが、大衆的な寵児になることはなかった。以上のような理由と羯南の商売嫌いにより「日本」は絶えず苦しい経営状態であったようだ。
羯南は短命(50歳)であったが、彼の盟友雪嶺は1945年まで生きた。雪嶺らが大東亜戦争に参入していく日本を肯定したことに対して「転向」扱いする風潮が歴史学内にある。彼らの手にかかると戦争を肯定したものはみんな「転向者」なのだ。しかしそうではない。羯南の書いたものを読めばわかるが、彼の思想は大東亜の志と重なる部分がかなりある。「明治の国粋主義者は国際的だが、昭和の国粋主義は偏狭なナショナリズムだ」と言うのが戦後歴史学のお決まりの言い方だが、それは全く当てはまらない。今日は時間もないので取り上げられないが、羯南の「国際論」を読めばそれがはっきりする。
羯南の論説は神田の古本街にいけば「日本思想体系」や「日本近代思想」などの全集の中に入っていて、千円かからないで入手できる。保守を志すものは一度読んでおいたほうがいい。一ついえるのは、羯南の議論は戦後日本においても有効な、それだけ質の高いものであるということだ。
初出:http://blog.livedoor.jp/k60422/archives/50725442.html
http://blog.livedoor.jp/k60422/archives/50727939.html
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?